カーペンターズ|カレンの生涯と代表曲・ヒット曲の魅力を詳しく解説!

カーペンターズ|カレンの生涯と代表曲・ヒット曲の魅力を詳しく解説!

1970年代を中心に活動した兄妹ポップスデュオ、カーペンターズ。

彼らの楽曲は日本でもドラマやCMに度々起用されているので、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?

しかし曲は聴いていても、カレン・カーペンターが摂食障害による悲劇的な最期を迎えた背景や、楽曲のバックグラウンドなど、詳しくは知らない方も多いかと思います。

そこで今回は、彼らの経歴とカレンの生涯、代表曲について、詳しく解説します。

 

カーペンターズの経歴とカレンの生涯

生い立ちとデビューまでの道のり

兄リチャードは1946年生まれ、カレンは4年後の1950年にアメリカのコネティカット州で誕生します。
彼らの父は熱心なレコードコレクターで、兄妹は小さな頃から日常的に音楽に囲まれて育ちました。

そんな中、リチャードは9歳からピアノレッスンを開始。
カレンは野球が好きなスポーツ少女でしたが、ハイスクールで参加したマーチングバンドでドラムに目覚めます。

後に作詞家としてカーペンターズとともに歩むことになる友人ジョン・ベティスは、リチャードが所属する合唱部の友人でした。

やがてジョンとリチャード、カレンの3人はスペクトラムというバンドを結成。

レコード会社にデモテープを送り続けますが、なかなか契約にこぎつけられません。
一時はカレンのソロ契約が決まりそうになりましたが、デモテープを聴いた重役の反対で契約破棄に。

スペクトラムは1968年に解散しますが、その後もリチャードとカレンは2人だけで音楽活動を続けます。

そして1969年、ついにデモテープがA&Mレコードのハーブ・アルバートに認められ、デビューが決まりました。

デュオ名は、2人のファミリーネームから取ったカーペンターズ。
当時リチャードは23歳、カレンはまだ19歳でした。

兄妹をスターダムにのし上げた「遥かなる影」

デビュー曲はビートルズのカバーで「涙の乗車券(Ticket To Ride)」

しかし全米シングルチャートでは54位と、いまいちヒットしませんでした。

続く1970年、2枚目のシングル曲「遥かなる影」原題:(They Long To Be) Close To Youが全米1位に輝くと、カーペンターズは一躍スターダムにのし上がります。

この曲は職業作曲家バート・バカラックによるもので、リチャード・チェンバレンという俳優が1963年にレコーディングしたのが最初です。

もともと平坦なリズムだった原曲を、リチャードがシャッフル(跳ねるリズム)にアレンジしてカバー。その結果、大ヒットを記録します。

リチャードのアレンジ能力は非常に高く、天賦の才がありました。

本人も、「曲を聴いただけでアレンジ後のイメージがすぐに湧いた」と、インタビューで語っています。

「遥かなる影」のヒットを皮切りに、カーペンターズは次々とヒット曲を連発していきました。

カレンの体調悪化と早すぎた死

数々のヒット曲により、誰もが認めるポップス界のスターとなったカーペンターズ。
順風満帆に見えた活動に、やがて暗雲が立ち込めはじめます。

70年代中盤あたりから、カレンの体調が崩れはじめたのです。
原因は神経性無食欲症、いわゆる拒食症でした。

カレンは自分のぽっちゃりした体形にコンプレックスがありました。(実際は下半身が少しぽっちゃりしている程度)

その事について、心無いメディアや音楽ファンから誹謗中傷を受けることも。

カレンは周囲から求められるスター像に自分を近づけるべく、痩せなければならないという強迫観念にとらわれてしまいます。

やがて、少しでも脂肪がつくことに恐怖感を抱き無理なダイエットを開始すると、下剤や代謝コントロールの薬を服用するまでエスカレートしていったのです。

そしてとうとう、コンサート中に意識を失い倒れてしまいます。これにより、1975年に予定されていた日本公演が中止となりました。

それから数年後の1980年、カレンは友人の仲介で知り合った不動産実業家と電撃結婚。
しかし、やっと手に入れた普通の幸せは1年で破綻、二人は別居します。

周囲からのプレッシャー、浪費癖のある夫との争いなど精神的負担が重なり、カレンの体は骨が浮き上がって見えるほどやせ細っていきました。

その後ようやくカレンは自分の置かれている危機的状況を理解し、1年間治療に専念します。
そしてなんとか体重を40kg近くまで戻すことに成功。

しかし、拒食症や長年の無理なダイエットはすでに彼女の心臓に大きな負荷をかけていたのです。

1983年2月4日、カレンは32歳の若さでこの世を去ります。
死因は、急性心不全でした。

こうしてカーペンターズのデビューから14年の活動に、突然終止符が打たれました。

 

カーペンターズの代表曲7選とその魅力


リチャードの天性のアレンジ力と、カレンの独特で味わい深いアルトの歌声。
それこそが、カーペンターズを唯一無二の存在たらしめた理由です。

ここからは彼らの代表曲のうち、7曲をピックアップ。
その背景やサウンドの魅力について触れていきます。

愛のプレリュード(We’ve Only Just Begun)


1970年発表
2ndアルバム「遥かなる影(Close To You)」に収録
作詞・作曲:ポール・ウィリアムズ / ロジャー・ニコルズ

ポール・ウィリアムズとロジャー・ニコルズの天才ソングライターチームの名を、一躍有名にした楽曲。
全米イージーリスニングチャートで1位を獲得した、カーペンターズの代表曲の一つです。

もともとはテレビCM用に作られた曲をリチャードが気に入り、作曲家を探し回ったのだとか。

そしてカレンの歌声を最大限に活かせるよう、リチャードがアレンジ。

壮大なコーラスとグルーヴィーに展開するメロディーなど、ソフトロックの良いとこ取りをしたようなひときわ洗練された名曲です。

雨の日と月曜日は(Rainy Days And Mondays)


1971年発表
3rdアルバム「カーペンターズ(Carpenters)」に収録
作詞・作曲:ポール・ウィリアムズ / ロジャー・ニコルズ

イントロの哀愁を帯びたハーモニカの音色が、ひときわ印象的な楽曲。

これは、伝説のハーモニカ奏者トミー・モーガンによる名演です。
トミーの素晴らしい演奏は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「追憶」など名だたる映画のサウンドトラックにも収録されています。

カレンは当時としては珍しい女性ドラマーで、この動画ではドラムを叩きながら歌う彼女の姿がみられます。

リチャードがカレンのことを生きるメトロノームと表現するように、彼女のリズムキープには寸分の狂いもありません。

また、カレンののびやかなボーカルがドラムとリンクし、曲をドラマチックに盛り上げます。

情感たっぷりに歌い上げ、語りかけるように落とす、表情豊かなカレンのボーカルが見事です!

スーパースター(Superstar)


1971年発表
3rdアルバム「カーペンターズ(Carpenters)」に収録
作詞・作曲:レオン・ラッセル / ボニー・ブラムレット


 

原曲はデラニー&ボニー&フレンズ「Groupie(Superstar)」です。

グルーピーとは、バンドの熱狂的な追っかけをする少女たちを指す言葉。
一部のグルーピーはミュージシャンに気に入られ親密になると、肉体関係に発展することもありました。

デラニー&ボニー&フレンズの歌詞をみてみると、その辺りが赤裸々に書かれています。

And I can hardly wait to sleep with you again
(もう一度あなたと寝られるのが待ち遠しい)

という歌詞ですが、これがカレンのイメージには合わないということで、カーペンタースが発表した時には以下のように書き換えられています。

And I can hardly wait to be with you again
(もう一度あなたといられるのが待ち遠しい)

一文字置き換えるだけで、スーパースターを待つ少女がいちファンではなく、恋人に近い存在だったとも解釈できます。
それをカレンが歌うことで、曲の世界により広がりが生まれました。

MEMO

1994年、オルタナティブ・ロック・バンドのソニック・ユース「スーパースター」をカバーしています。

トップ・オブ・ザ・ワールド(Top Of The World)


1972年発表
4thアルバム「ア・ソング・フォー・ユー(A Song for You)」に収録
作詞:作曲:ジョン・ベティス / リチャード・カーペンター

シングル人気チャートで「遥かなる影」に続く全米1位を獲得。
軽快な曲調に浮足立つような恋心を描いた、ハッピーなラブソングです。

日本では1995年のドラマ「未成年」野島伸司脚本)のオープニングテーマに選ばれ、リバイバルヒット。

また、少年ナイフによるカバーがサントリー「-196℃」CMソングにも起用されるなど、いつの時代もどこかで耳にするエバーグリーンな楽曲です。

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シング(Sing)


1973年発表
5thアルバム「ナウ・アンド・ゼン(Now & Then)」に収録
作詞:作曲:ジョー・ラポソ



 

アメリカの子ども向け教育番組、「セサミストリート」の主題歌としてリリースされた「シング」。

歌詞は日本語にも翻訳され、「NHKみんなのうた」で、杉並児童合唱団によるカバーが放送されました。

1974年の来日公演では、武道館でカーペンターズ自ら日本語バージョンを披露。
この時、ひばり児童合唱団が子どもコーラスとして参加しました。

緊張する子どもたちを笑顔で気遣うカレンの姿が、ライブ映像に収められています。

「カレンは無邪気で賢い人だった」というジョン・ベティスの言葉どおり、彼女は人に気遣いが出来るすてきな女性だったことがうかがい知れる場面です。

イエスタデイ・ワンス・モア(Yesterday Once More)


1973年発表
5thアルバム「ナウ・アンド・ゼン(Now & Then)」に収録
作詞:作曲:ジョン・ベティス / リチャード・カーペンター

 

全米シングルチャートで2位を記録し、日本の洋楽チャートでは半年間1位をキープしたカーペンターズの代表曲。

When I was young I’d listen to the radio
若かった頃ラジオを聴きながら

Waiting for my favorite songs
お気に入りの曲が流れるのを待ってた

ではじまる、ノスタルジックな歌詞とメロディー。
そこにカレンの暖かいボーカルが完璧にマッチした、美しい名曲です。

この曲ではカレンがドラムを担当していますが、彼女のリズム感が天才的だったことを表すこんなエピソードが…

レコーディングを終えた後、コーラスを録り直したいというリチャードの意向により、前半部分だけを録音し直すことになりました。

そうして録り直した後の音源を聴いたジョー・オズボーン(ベース)が、「リズムにブレがなく、継ぎ目が全く分からなかった」と、インタビューで話しています。

当時は編集技術が今ほど発達していなかったので、別々に録ったドラムを自然につなぎ合わせるのは至難の業。
それをいとも簡単にやってのけたカレンは、並外れた才能の持ち主だったのです。

青春の輝き(I Need To Be In Love)


1976年発表
7thアルバム「見つめ合う恋(A Kind of Hush)」に収録

作詞:作曲:ジョン・ベティス / アルバート・ハモンド / リチャード・カーペンター

カレンの一番のお気に入りだったという「青春の輝き」。

アルバート・ハモンドがギターに合わせて作った美しいメロディーに、リチャードがクラシカルなアレンジを加え磨きをかけました。

作詞家のジョン・ベティスはのちに、この歌詞はカレンそのものだと語っています。

So here I am with pockets full of good intentions
(わたしのポケットの中は光る望みでいっぱいだけど)

 

But none of them will comfort me tonight
(それなのに今夜は何にも満たされない)

はたから見ると、地位も名声も全て手に入れたかのように見えたカレン。
しかし、彼女はこんな発言をしています。

「ステージを降りてスポットライトが消えると、自分が何者でもないと感じる」
「自分にはもう結婚も子どもを持つことも出来ないのではないだろうか」

カレンは求められるスター像に懸命に応えようとするあまり、自分の幸せを欲する気持ちに無意識に蓋をしていたのかもしれません。

「青春の輝き」はカーペンターズらしい自信作でしたが、彼らの予想に反し、チャートは25位と不振に終わりました。

しかし、発表から約20年の時を経て日本で大ヒットを記録します。
それは、前述の「トップ・オブ・ザ・ワールド」とともにドラマ「未成年」の主題歌に起用されたことがきっかけでした。

ドラマの放送に合わせて発売された「青春の輝き」「トップ・オブ・ザ・ワールド」の両A面シングルCDが大ヒット。

続いて日本限定ベスト盤「青春の輝き〜ベスト・オブ・カーペンターズ」が発売され、300万枚以上のセールスを記録したのです。

リチャードはインタビューで、この現象を感慨深く受け止め、涙を浮かべて喜んでいました。
この曲はリチャードやジョンと、カレンを繋ぐ特別な曲だったのです。

 

さいごに

今回は、カーペンターズの軌跡とカレンの悲劇的な最期、ヒット曲のバックグラウンドについて詳しく解説しました。

カレンの死後、兄のリチャードは彼女に何もしてやれなかった自分を責め、しばらく沈黙を守っていたようです。

しかし8ヵ月後には、カレンが生前録音していたボーカルを元に制作したアルバム「Voice Of The Heart」を発表。

その後もベスト盤や未発表作品集のリリースなどで、何度もカレンの素晴らしい歌声をよみがえらせています。

カーペンターズの残した足跡を改めてたどることで、カレンの歌声はより深く心に響くことでしょう。

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