長嶋茂雄とは?ミスタープロ野球の伝説と成績を紹介!

長嶋茂雄とは?ミスタープロ野球の伝説と成績を紹介!


長嶋茂雄さんはミスタープロ野球と呼ばれ、今でも多くの選手の憧れとなっています。野球界の一時代を築いたと言っても過言ではない長嶋さんの経歴や成績についてを今回はご紹介したいと思います。

はぁ……長嶋茂雄さんですよ


いきなりなんだい、そのため息は……嫌なの?


いや……ボクらみたいなのがミスタージャイアンツと呼ばれた長嶋さんを紹介してもいいのだろうかと思ってね……恐れ多いよ


まぁ、気持ちはわからなくもないが……ベストを尽くそう。それでは、今回はミスタージャイアンツと呼ばれた国民的スター長嶋茂雄さんについてを紹介したいと思います!

長嶋茂雄のプロフィールを紹介!

ここでは、長嶋茂雄さんのプロフィールについて触れています。長嶋さんについて知りたい方は是非ご覧ください。

長嶋茂雄のプロフィール


出身地:千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市)
生年月日:1936年2月20日(84歳)
身長:178cm
体重:76kg
投打:右投げ右打ち
背番号:3→90→33(3は永久欠番)
ポジション:三塁手

座右の銘は快打洗心

2001年に監督業から引退し、専務取締役終身名誉監督へ就任した長嶋茂雄さんは、とある記者から「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問にこのような答えを返しています。

「野球というスポーツは人生そのものです」

現役時代には数々の活躍で野球界を盛り上げ、「快打洗心」という座右の銘を抱きながらプレーを続けてきた長嶋さんの想いがこの一言に詰まっていました。

「野球はすごい幅と奥行きがある世界。一番人気のあるスポーツとしてこれからも永遠に続いていく。こういう世界に身を置けたことを光栄に思う」

その感謝の言葉にはとてつもない重さを感じさせます。ファンに夢と感動を与えた選手でもあり監督でもあった長嶋さんだからこそ、伝えられる言葉だったのかもしれません。

全ては野球ファンのために魅せる野球

現役時代は至高の三塁手として活躍してきた長嶋茂雄さん。自身が守る三塁を「ホットコーナー」と呼び、多くの白球に喰らいつきました。

しかし、長嶋さんはボールを捕るためだけに、三塁の守備位置に着いていたわけではありません。スタンドに近く、そしてファンの目と鼻の先で熱いプレーを見せることができるからこそ、三塁手を務めていました。

なぜ、そのようなことをするのか。

それは、長嶋さんにとってファンと一緒になることが野球だったからです。同じ読売ジャイアンツのチームメイトであった王貞治さんは、自身の著書「回想」にて、長嶋さんをこのように語っています。

「こと技術に関しては、長嶋さんより上だと確信している。しかし、長嶋さんが私と違っていたところは、プロ野球というものを長嶋さんが“見せる芸”として把えていた点だ。日本のプロ野球の中では、見せる意識を持ってプレーしてきた選手は、後にも先にも、長嶋さんをおいて他にいないのではないか」

長嶋さんが選手として活躍していた時は、どんな平凡なゴロであってもファンに見せることを怠りませんでした。

歌舞伎界の名優と呼ばれた市川團十郎を見様見真似して、一塁に送球後に手をひらひらと打ち振り、足を送るしぐさは有名です。

現役時代のプレーを見ていたお笑いタレントのビートたけしさんは、そんな長嶋さんについてこのように述べています。

「長嶋が登場するまでは、巨人の守備になるとみんな便所に行ってたんだよ。つまり守備は見る必要がないって思ってたんだ。でも長嶋が登場してからは、あの守備が見たくてさ。便所すら行けなくなっちゃったよ」

長嶋さんのプレーは確かにファンの心を掴んでいました。「見せる」ではなく「魅せる」プレーをファンに与えてきた長嶋さん。その根底には、プロフェッショナルとしての姿を感じさせます。

夢と感動を与えるにはどうすればいいのか。長嶋さんの抱くプロ野球選手像とは、そういった試行錯誤の末に辿り着いたものなのかもしれません。

誰もが認めるミスター

数々の魅せる野球で、選手としてだけでなく監督としてもファンに愛された長嶋茂雄さん。

選手時代は長きにわたり巨人軍の4番打者として活躍し、同時代に活躍した王貞治さんとともに「ON砲(オーエヌホウ)」として称されていました。

「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」「チョーさん」など、様々な愛称で親しまれ、読売ジャイアンツ終身名誉監督、そして国民栄誉賞を受賞するなど、紛れもない国民的なスターとして現在でも多くの人に語られています。

恐らく長嶋さんは謙遜するかもしれませんが、野球界の一時代を築いたと言っても過言ではありません。長嶋さんの活躍は今後も多くの人に夢と感動を与え、野球に携わる人の指標となるでしょう。

長嶋茂雄の経歴を紹介!

ここでは長嶋茂雄さんの成績や活躍した経歴についてまとめています。長嶋さんの入団から現在に至るまでをまとめているので、興味のある方は是非ご覧ください。

長嶋茂雄の主なタイトル


【選手時代】
首位打者:6回
本塁打王:2回
打点王:5回
最多出塁数:3回
最多安打:10回(6年連続、通算10回は日本記録)
最優秀選手:5回
新人王:1958年
ベストナイン:17回(入団から引退までの全シーズン受賞は史上唯一)
日本シリーズMVP:4回(歴代1位)

【監督時代】
試合数:1982
勝利:1034
敗戦:889
引分:59
勝率:.538
リーグ優勝:5回
日本一:2回


※一部の記録は記載しておりません。

長嶋さん、実は阪神ファンだった

長嶋茂雄さんは当時の関東在住者としては珍しく、幼少時は阪神ファンでした。

野球選手を志すようになったのも、東急フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)と大阪タイガース(現:阪神タイガース)でした。

当時は戦後間もないということもあり、道具が揃えられず、長嶋さんはビー玉を堅い布で包んだものをボールとして使い、グラブも手製のものを使用していたようです。

今の時代を生きる子供たちには信じられないかもしれませんが、当時はそれが当たり前だったのです。

巨人入団は母の一言から

小学生の頃から野球を始めた長嶋茂雄さんは、中学・高校を卒業後に立教大学経済学部へと進学しました。この時は長嶋さんの父親が急逝するなどで大変な時期でしたが、母親の助けなどもあり、中退することなく大学へ通うことができました。

大学の野球部では、当時監督を務めていた砂押監督に目をかけられ、特別扱いの猛特訓を受けていました。しかし、これが原因で先輩部員に嫌われてしまい、指導という名のいじめを受けていたそうです。

そんな状態に置かれながらも、長嶋さんは部内での正三塁手を勝ち取り、同期の杉浦忠投手、本屋敷錦吾内野手と共に「立教三羽烏」と呼ばれるまでになりました。

もちろん、その活躍はプロ野球界にも知れ渡っており、そもそも高校時代からさまざまな球団が長嶋さんと接触を図っていたようです。その中でも広島カープは、長嶋さんを広島観光に誘うほどでした。

しかし、長嶋さんの本命は別にあったため、他の球団がどのような交渉をしても無駄でした。それが「南海ホークス」です。

ただ、読売ジャイアンツだけは交渉に粘りを見せ、長嶋さんの家族に接触して説き伏せる作戦に出ていました。それが影響してか、長嶋さんの母親が「せめて在京の球団に」と言い、これが決め手となって巨人へと入団を決めたそうです。

早くに長嶋さんは父親を亡くしており、代わりに家庭を支えてくれた母親からの頼みは断れなかったと、長嶋さんは当時のことを語っていました。

もし、長嶋さんの母親の一言がなければ、長嶋さんは南海ホークスへと入団していたかもしれません。人生の分かれ道というのは、何がきっかけとなるかわからないものですね。

巨人に入団後は新人王を獲得する活躍

1958年にルーキーとして迎えた長嶋さんは、オープン戦で7本の本塁打を打つ活躍を見せました。

デビュー戦では国鉄のエースであった金田正一に4打席連続三振と振るわなかったものの、8月頃には巨人の4番打者として座り、チームのリーグ優勝へと貢献しました。

ルーキーでありながら最終的な成績は、本塁打王と打点王の二冠を達成。また、最多安打を記録し、打撃だけでなく走塁においてもチームに貢献。リーグ2位となる盗塁37を記録しました。

また、現在でも達成者はいませんが「単打、二塁打、三塁打、本塁打のすべてでリーグ最多」という大記録を目前にして逃してしまいます。残りは三塁打だけでしたが、僅か一本足らずに記録達成とはなりませんでした。

しかし、ルーキーでこれだけの活躍をするというのは、改めて長嶋さんのポテンシャルの高さがうかがえます。広島カープが長嶋さんを広島観光に誘ったのも頷けます。

ONアベック本塁打の第1号

長嶋茂雄さんと言えば、同期である王貞治さんとの「ON砲」が有名です。

元々はニューヨーク・ヤンキースで活躍していたミッキー・マントルとロジャー・マリスの「MMキャノン」に倣って名付けられたもので、デイリースポーツがメディアを通じて取り上げたのが発端でした。

この長嶋さんと王さんのON砲は多くの選手に影響を与え、捕手としてだけでなく、監督としても数々の功績を残してきた野村克也さんもその一人です。

当時、南海ホークスに在籍していた野村さんは、自身が史上2人目となる600号本塁打を放った際に「私は月見草で王や長嶋はヒマワリ」という言葉は今となっても有名です。

そんな長嶋さんと王さんのON砲の第一号は、1959年6月25日に行われた天皇が観戦する天覧試合が始まりでした。

対阪神戦の4対4で迎えた9回裏、先頭打者だった長嶋さんが阪神の村山実からサヨナラ本塁打を放ちました。当時ルーキーだった王さんも本塁打を打っており、この2人の活躍を含めた試合がきっかけでプロ野球人気に火が付いたとも言われています。

その後は長嶋さんと王さんが互いに3番と4番を担い、現役を引退するまでに通算106回のON砲を記録することになります。

我が巨人軍は永久に不滅です!

その後も数々の活躍を魅せ、ファンを沸かせてきた長嶋茂雄さんですが、1974年10月12日に現役を引退することを表明しました。

この時の周囲の反応は凄まじく、翌日の新聞には巨人を制してリーグ優勝を果たした中日を脇に追いやり、記事の一面を飾るほどのものでした。

また、この時の中日の優勝は、巨人の優勝10連覇を打ち砕くものであったため、長嶋さんの影響力がどれだけのものだったのかがうかがえます。

引退試合は2試合が組まれ、1試合目では長嶋さんが村上義則から現役最後の本塁打を放ちました。また、この試合で4番を務めていた王さんも長嶋さんに続いて本塁打を放ち、106本目となる最後の「ON砲」を飾りました。

ちなみに試合前に長嶋さんは王さんに「すまんんぇ、今日は引き立て役となってもらうよ」と囁いたそうです。それに対し「今日はパッと明るく、アベックホーマーでいきましょう」と王さんは笑いながら答えたそうです。

有言実行とはまさにこのことでしょう。それも、これほどの大舞台で達成するというのは、まさにプロ野球界のスターと呼べるべき存在です。

続く第2試合を終えた後、長嶋さんは引退セレモニーのスピーチで今となっては有名なこの言葉を残しています。

「我が巨人軍は永久に不滅です!」

引退を表明した際も多くのメディアに取り上げられていましたが、引退後にはそれを超える勢いで、1974年の影響力を与えたニュースとして4位にランクインし、社会的事件としてスポーツ界の垣根を超えたものとして扱われました。

監督として再始動

選手として活躍した長嶋茂雄さんが監督として巨人へと舞い戻る。当時であれば当然と言えば当然だったかもしれません。野球界のスターをもっと見たいというファンも多かったでしょう。

しかし、長嶋さんであっても、監督業が最初から成功したわけではありません。選手と監督では目線が違い、コーチ陣との衝突もあったようです。

クリーン・ベースボール

監督に就任した長嶋茂雄さんはチームに「クリーン・ベースボール」を目標にすることを掲げました。確率野球を捨て、投・打の力量差だけで勝敗につながる野球を求めました。

しかし、これには多くの関係者から疑問を持たれるものだったと言われています。そもそも確率野球は前監督の川上哲治さんが自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、勝利するという内容のもの。

これを捨てるということは、川上さんの野球を全て否定するに等しかったので、関係者からは不満の声も多かったようです。

また、長嶋さんは監督就任にあたってコーチ陣を全て一新しており、川上監督の名残を全て一掃してしまいました。選手の中でも疑問の声が上がり「長嶋さんは一体どういう野球をしたいのかがわからない」という声もありました。

様々な意見の中、長嶋さんが監督して就いたその年は、球団創設以来初の最下位に終わってしまいます。その後はリーグ優勝を2回達成しますが、チーム内の不穏や川上監督時よりも成績が低迷していることもあり、1980年に解任されてしまいます。

松井秀喜と共に巨人へ

解任から数年が経った1992年。再び長嶋茂雄さんが監督として巨人へ復帰しました。その復帰直後のドラフト会議においては、元プロ野球選手の松井秀喜を引き当て、これが後に語り継がれる師弟関係となりました。

その後、低迷する巨人軍を奮起させるために、長嶋さんは自身の造語で「メークドラマ」を発表。ペナントレースで大逆転を演じる、という意味合いでチームの再建に取り組みました。

メークドラマによって数々のメディアが巨人の逆転劇を予想。一時は流行語にまで発展してしまうほどでした。もちろん、全てが上手くはいきませんでしたが、長嶋監督第二次政権では、若手を中心に活躍が広がっていきました。

松井秀喜、高橋由伸、清原和博、上原浩治、二岡智宏などのそうそうたるメンバーの活躍もあり、リーグ優勝5回、日本一2回を達成する快挙を成し遂げます。

野球日本代表チーム監督就任も…

2002年にアテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督へと就任しました。

翌年に行われたアジア選手権大会では中国、台湾、韓国を制して優勝を果たし、オリンピック出場への切符を獲得しました。

しかし、2004年にまさかの脳梗塞で倒れてしまい、緊急入院。一命こそ取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出るほどでした。

もちろん、オリンピックでの復帰を考えていたそうですが、短期間での症状の回復は無理と判断され、肩書はそのままでも現地アテネで指揮を執ることはありませんでしたが、長嶋さんは最後まで諦めようとはしませんでした。

自身の分身として、日の丸の旗に選手「3」と手書きで記したものを現地で戦う選手に届けたのです。大きく書かれた数字は、右半身が麻痺しているとは思えないほどに綺麗な字だったと、担当した医師はメディアの取材で述べていました。

たった一文字でしたが、それは長嶋さんの全てを表す一文字でもありました。その「3」というメッセージを受け取った選手がどのようなことを抱いたのかはわかりません。ただ、長嶋さんの野球に対する想いは感じ取れたのではないかと思います。

最後に…

脳梗塞で倒れた後、長らく公の場に姿を見せることがなかった長嶋茂雄さんでしたが、倒れてから1年4ヶ月ぶりにリハビリから復帰し、監督業こそできなくなってしまったものの、自分のできる範囲で野球に携わるようになりました。

その後、2013年には弟子とも呼べる存在である松井秀喜さんと共に国民栄誉賞を受賞するなど、再びファンを沸かせました。野球を人生と語る長嶋さんは、これからもファンのために立ち続けるでしょう。

上の動画は原辰徳監督、阿部慎之助選手と抱き合う長嶋茂雄さんです。

以上、長嶋茂雄さんの紹介記事でした。

ここまでご覧いただきありがとうございます。

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