伝説の投手「沢村栄治」の凄さとは?当時の球速、背番号、名言を紹介!

伝説の投手「沢村栄治」の凄さとは?当時の球速、背番号、名言を紹介!

日本プロ野球界の伝説の投手の一人、沢村栄治(さわむらえいじ)。その活躍から沢村栄治賞(沢村賞)の制定のきっかけとなった人物でもあります。沢村栄治の経歴を紹介しつつ、当時の球速や背番号、名言などを解説していきます。

野球に少しでも携わった人なら「沢村栄治」は知っているよね?

沢村栄治って凄い人なの?

……まさか身内にいるとは思わなかったよ。チケさるくん、それじゃ沢村賞は知っているよね?

うん!それは知ってるよ!なんか凄い賞なんだよね?

間違いではないんだけどな……よし!今回はそんなキミのために沢村栄治の経歴やプロフィールについて紹介してあげよう!

沢村栄治はどんな選手?プロフィールを紹介

沢村栄治の基本情報

出身地:三重県宇治山田市(現、伊勢市)
生年月日:1917年2月1日
没年月日:1944年12月2日(27歳没)
身長:174cm
体重:71kg
投打:右投げ左打ち
背番号:14
ポジション:投手

永久欠番となった背番号14

プロとしての活動期間は短いですが、その功績は現在でも多くの人の指標となっています。

沢村栄治の活躍を後世に遺すため、戦死後の1947年7月9日に、巨人は背番号14を永久欠番にしていしました。これはプロ野球史上初の試みでもあります。

栄誉と功績を称えた「沢村栄治賞(沢村賞)」が制定

1947年、沢村栄治の背番号14が永久欠番になった同時期に、日本プロ野球界における特別賞の一つでもある「沢村栄治賞(沢村賞)」が制定されました。

当時の剛速球投手として名を馳せた沢村栄治の栄誉と功績を称え、そして投手にとって最も誉れ高い賞でもあります。

MEMO

現在の記録で最多選出回数は3回で、杉下茂、金田正一、村山実、斎藤雅樹が選出されています。

沢村栄治の主な経歴や獲得タイトルを紹介

沢村栄治が獲得したタイトルや表彰、記録について紹介しています。

タイトル

  • 最多勝利:2回(1936年秋、1937年春)
  • 最優秀防御率:1回(1937年春)
  • 最多奪三振:2回(1937年春、1937年秋)
  • 最高勝率:1回(1937年春)
  • 表彰

  • 最高殊勲選手(MVP):1回(1937年春)
  • 野球殿堂入り(特別表彰:1959年)
  • 記録

  • 投手3冠:1回(1937年春)※史上初
  • 投手4冠:1回(1937年春)※史上初
  • 投手5冠:1回(1937年春)※史上初
  • ノーヒットノーラン:3回(史上最多タイ)
  • 活躍する期間は短いながらも、当時のピッチャーの中でも群を抜いた成績を残しています。

    そんな沢村選手がどのような活躍をしていたのか、下記に掲載していますので、是非ご覧ください。

    才能の片鱗を見せるプロ入り前

    1917年2月1日、三重県宇治山田市(現:伊勢市)で長男坊として生まれた沢村栄治は、京都商業学校(現:京都学園高等学校)の投手として活躍します。

    1933年春、1934年春と夏の高校野球全国大会(当時:中等野球)に出場し、1試合23奪三振を記録するなど、若年ながらも高い才能を見せつけていました。

    日米野球の全日本選抜チームに参戦

    1934年の夏の大会を最後に沢村栄治は京都商業学校を中退します(現在の高校3年生相当)。

    同年、読売新聞社主催の日米野球の全日本選抜チームに参戦しました。外国人選手を相手に奮戦するも、0勝16敗というこれ以上ない大敗を喫してしまいます。

    しかし、沢村栄治が登板した1試合では、8回5安打1失点の好投を見せ、当時開催された静岡県草薙球場での快投は、現在でも語り草となっています。ですが、登板した残りの4試合では散々な結果に終わってしまい、力の差を見せつけられてしまいます。

    MEMO

    沢村栄治は計5試合に登板(先発4)し、0勝4敗・防御率7.85(28回2/3で34失点25自責点という結果に終わってしまいます。

    沢村栄治、伝説の打者ベーブ・ルースと対決

    敗戦とはなりましたが、草薙球場での対戦で沢村栄治は、今でも語り継がれる伝説の打者「ベーブ・ルース」を三振に抑えました。

    ベーブ・ルースは当時のインタビューの際、沢村栄治のピッチングを称賛する言葉を残しています。

    MEMO

    ベーブ・ルースは沢村栄治を称賛する一方「丁度バッターボックスに入って投手に面すると太陽が真正面に見えるのでまぶしかった」ともコメントしています。

    プロ入り後、ノーヒットノーランやMVPを達成

    1934年の暮れに、全日本チームを基礎としたプロ野球チーム「大日本東京野球クラブ(現在の読売ジャイアンツ)」が結成されました。沢村栄治もチームの一員として入団し、晴れてプロ入りを果たします。

    プロ野球リーグが開始された1936年の秋には中山武とのバッテリーにおいて、プロ野球史上初となるノーヒットノーランを達成しました。

    同年に行われた大阪タイガースとの優勝決定戦においては3連投して、巨人に初優勝をもたらす活躍を見せます。

    1937年の春には24勝・防御率0.81の好成績を残し、プロ野球史上初となるMVPに選出されました。

    また、2度目のノーヒットノーランをこの年に記録するなど、日本プロ野球球界を代表する投手として成長していきました。

    メジャーリーグ入りの可能性があった

    プロ野球リーグの開催前に行った、第一次アメリカ遠征に参加します。その遠征の際のミルウォーキー・レッドソックスとの対戦前に、とある男性が外野席から飛び降りて沢村栄治にサインを求めました。

    実はこのサイン、選手雇用のための契約書だったのです。沢村栄治はそれを知らず、何気なしにサインに応えてしまいました。

    試合後、サインを求めた男性が「スクールボーイ(沢村栄治のあだ名)をいつ渡してくれるのか?」と問い合わせにきました。

    この時、試合前に応じたサインが大リーグの雇用契約書であることを初めて知り、マネージャーである鈴木惣太郎はこの契約を無いものとして断り、沢村栄治の大リーグ入りは幻となりました。

    MEMO

    この騒動の翌日「カージナルスのスカウトが東京ジャイアンツのエースをさらい損なう」という見出しで、大々的に報道したそうです。

    手榴弾と銃弾が原因で右肩を故障

    1938年、徴兵によって帝国陸軍に入営し、1940年の途中まで軍隊生活を送ることになります。日中戦争(支那事変)に従軍し、前線において「手榴弾」を多投したことにより右肩を痛めてしまいます。

    また、左手を「銃弾貫通」で負傷し、さらには「マラリア」にまで感染。戦争によって生じた怪我などは、いずれもプロ野球生活において大きな影響を残すことになります。

    復帰後、サイドスローへと転向

    野球に復帰した沢村栄治ですが、戦争によって感染したマラリアの影響もあり、何度も球場で倒れてしまいます。また、手榴弾の投擲によって痛めた右肩は、オーバースローからの投球ができなくなっていました。

    そのため、沢村栄治は速球を投げられないオーバースローを捨ててサイドスローでの投球に変更。これが功を奏し、抜群の制球力と変化球による技巧派投球で、自信3度目となるノーヒットノーランを達成しました。

    シーズン開始前に解雇

    その後、予備兵として軍隊に再び戻り、1941年終盤から1942年までを戦場にて過ごします。再び野球をする頃にはサイドスローでの投球もままならず、アンダースローに転向するも制球力を大きく欠き、好成績を残すことができなくなりました。

    そして1943年10月24日の代打出場を最後に、1944年のシーズン前に解雇されてしまいます。本人は移籍を希望しましたが、マネージャーである鈴木惣太郎から「巨人の沢村で終わるべきだ」と説得され、若くして現役を引退。

    MEMO

    この引退の際、南海軍(現:福岡ソフトバンクホークス)から入団の誘いがありましたが、沢村栄治は固辞したようです。

    沢村栄治、戦死

    1944年に現役を引退した沢村栄治は、応召により3度目の軍隊生活を送ることになります。しかし、同年12月2日のフィリピン防衛戦に向かうために乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ海軍潜水艦「シーデビル」により撃沈され、戦死。

    特進で任陸軍伍長。27歳という若さでこの世を去りました。

    沢村栄治の戦死後は、その活躍から多くの野球選手の指標となる沢村栄治賞が制定されました。また、沢村栄治自身には野球殿堂入り勲七等青色桐葉章追贈背番号14を永久欠番にするなど、若くして失われた才能を追悼すると共に最大の称賛を贈りました。

    沢村栄治が残した名言をまとめてみました!

    野球界において現在でも語り継がれる、伝説の豪腕投手「沢村栄治」。彼が残した功績は大きく、現在でも多くの選手にとっての指標であり続けます。

    そんな沢村栄治が生前に遺した言葉を下記に掲載しています。当時の記録から残っているものは少ないですが、その中には戦争の真っ只中ではないとわからない言葉も並んでいるので、ぜひご覧ください。

    「どんな球でも一投、これすべて創造だと思います。この球は自分にとってはじめて投げる球だと思うと、なんともいえぬ感動が胸にこみ上げ投球に熱が入りました」

    沢村栄治の野球に対する思いが伝わってきます。一球入魂という言葉はこのためにあるのかもしれません。

    「人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ」

    これは、沢村栄治の弟に当てられた手紙の一文です。豪腕投手として知られる沢村栄治の勝負強さが現れています。また、自身もオーバースローからサイドスローへ転向するなど、野球に対する責任を果たすために試行錯誤を繰り返していました。

    「芝生の上に立って白いボールを握ったときのうれしさは、死線を乗り越えてきたものだけにしか味わえない」

    今の野球選手でこれを語れる人はいません。野球選手であっても戦争に行かなければならない世の中で、生きて帰った時に触れたボールがどれだけ嬉しかったのかは計り知れない思いだったでしょう。平和を生きる時代だからこそ、この言葉を忘れてはいけません。

    沢村栄治の球速は?現役選手と比較!

    伝説のピッチャー沢村栄治は、その豪腕から多くの打者を打ち取ってきました。当時は球速を図る機械などはない時代です。もし、沢村栄治が現代で投げていたとしたら、どれだけの球速を出していたのでしょうか。

    沢村栄治の当時の球速は160キロ!?

    沢村栄治の球速は、現代では何キロ出ていたのか。残っている映像資料を元に、実際の球速を検証する企画が放送されました。

    1999年に放送された番組「勇者のスタジアム・プロ野球珍プレー」では、キャッチボールでは全力の何パーセントの力で投げるかの平均値及び、足を高く上げる沢村の投球フォームから実際の球速を導きました。その結果、沢村栄治は160.4キロの球速で投球していると判明しています。

    2015年6月11日に放送された「クローズアップ現代」で、沢村栄治の試合中の映像が見つかったことが判明し、特集が組まれる事態となりました。試合の映像では、実際より足を高く上げていないことがわかり、計算上では159キロの速球であると算出されました。

    日本プロ野球の球速記録を紹介!

    沢村栄治の投じる球が、実際に160キロであった場合、日本プロ野球での日本人投手ではどの選手に該当するのかを掲載しています。下記に球速が速い順に並べていますので、ぜひご覧ください。

    大谷翔平

    二刀流として北海道日本ハムファイターズから海を渡った、若きメジャーリーガーの大谷翔平選手。現在はロサンゼルス・エンゼルスにて活躍をしています。

    2016年10月16日、福岡ソフトバンクホークスとのクライマックスシリーズ、ファイナルステージ第5戦において、165キロを計測しました(NPB最速記録)。

    佐藤由規

    現在、東北楽天ゴールデンイーグルスに在籍する佐藤由規選手は、プロ入団当初は速球派投手として、多くの打者をねじ伏せてきました。

    2010年8月26日、横浜ベイスターズ戦において161キロの球速を叩き出しています。この時、テレビ中継と球場においての球速表示に差異があったので、実際は150キロの後半ではないかとも言われています。

    千賀滉大

    福岡ソフトバンクホークスに在籍する千賀滉大選手は、日本シリーズの開幕投手を務めた史上初の育成出身の選手として注目を浴びました。

    2019年3月29日の西武ライオンズ戦の開幕戦において、161キロを計測します。その後も160キロ台を複数計測しました。

    最後に

    以上、沢村栄治のプロフィールや経歴をご紹介しました。

    永久欠番、そして多くの投手の目標でもある沢村賞のきっかけを作った選手として、現在でも語り継がれる偉大な選手の一人です。

    そんな選手たちの活躍から野球の歴史を紐解くのも、一つの楽しみ方かもしれません。

    最後までご覧いただきありがとうございました。

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