2022年から北海道日本ハムファイターズの監督に就任し、チームをAクラス入りに導いた新庄剛志。
新庄剛志はユニークなファッション、ファンを魅了する華麗なプレー、ファンサービスなど、さまざまな角度から日本のプロ野球界に旋風を巻き起こし、野球選手の概念を大きく変えてきました。
本記事では、時には野球選手として、時にはエンターテイナーとしてプロ野球ファンを魅了している新庄剛志について徹底解説します。
選手や監督としての経歴や成績、多くの人をポジティブにさせる名言など、さまざまな角度からその魅力に迫りますので、ぜひ最後までご覧ください。
目次
新庄剛志のプロフィール
・氏名:新庄剛志
・出身地:福岡県福岡市
・生年月日(年齢):1972年1月28日(52歳)
・身長:181cm
・体重:76kg
・投打:右投右打
・背番号:1
・ポジション:外野手
・経歴:西日本短期大学附属高-阪神タイガース-ニューヨーク・メッツ-サンフランシスコ・ジャイアンツ-ニューヨーク・メッツ-北海道日本ハムファイターズ
新庄剛志は、西日本短期大学附属高校からドラフト5位で阪神タイガースに入団しています。
MLBへの挑戦、北海道日本ハムファイターズの監督就任など、話題性抜群の人物です。
また、上記で紹介している経歴以外にも、個人事務所を立ち上げてのタレント活動や、インドネシアのバリ島へ移住し、モトクロス競技の練習に励むなど、破天荒な生き方が注目されています。
現在は、北海道日本ハムファイターズの監督を務めており、2025年シーズンも続投されることが発表されています。
今後はどのようなファンサービスで観客を楽しませてくれるのでしょうか。
新庄剛志のプレーの魅力
ここからは、現役時代の新庄剛志のプレーの魅力を解説します。
打撃
新庄剛志の打撃は思い切りのよいフルスイングが魅力です。
また、カウントや状況にとらわれず、浅いカウントからでも積極的にスイングするので、相手チームからすると読みづらい選手といえるでしょう。
NPBでの通算打率は.254、MLBでは.245とハイアベレージとはいえません。
しかし、チャンスの場面や思わぬ場面で大仕事をするタイプで、ファンからの注目度は高く人気も抜群でした。
また、MLBの球団において日本人で初めて4番打者を務めるなど、勝負強さや長打力は野球の本場であるアメリカでも高く評価されていたのです。
守備
守備のスペシャリストとして高い評価を得ていた新庄剛志。
遠投130メートルを誇る強肩や、的確なポジショニング、カバーリング能力の高さなど、どの面から見ても高いポテンシャルを誇っています。
また、単純にアウトを取るだけではなく、あえて捕球のタイミングを遅らせて走者に次の塁を狙わせたり、フェンスダイレクトの打球に対し、フェイクの捕球姿勢をとって進塁を阻止したりするなど、豊富なアイデアを持っていました。
さらに、捕球から送球までが抜群に速く、捕球位置や捕球体勢、足の運びなど、さまざまな引き出しを持っているのが特徴です。
走塁
ベースランニングの技術が高く、一塁を回ってからのトップスピードが速いのが特徴です。
新庄剛志の走塁といえば、2004年のオールスターゲームで敢行したホームスチールではないでしょうか。
このホームスチールについて、セ・リーグの福原忍、矢野燿大バッテリーのクセはわかっていたので成功する自信があったと語るなど、観察眼も優れているのです。
北海道日本ハムファイターズの監督就任後は、「転んだふり」をして牽制を誘い、3塁走者を生還させるトリックプレーを考案するなど、たくさんのアイデアやこだわりをもっています。
現役時代の活躍やエピソードを紹介
ここからは、新庄剛志の現役時代の活躍について紹介します。
野球での活躍もさることながら、さまざまな伝説を残しているのです。
新庄剛志のエピソードをぜひチェックしてください。
阪神タイガース時代
1989年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受けた新庄剛志。
外野手として入団したものの、本人希望で遊撃手へとコンバートされています。
1993年からは本職である外野手に戻り、ゴールデングラブ賞を初受賞するなど活躍。
阪神タイガースに在籍していた10年間でベストナイン2回、ゴールデングラブ賞を7回受賞するなど守備の名手として勝利に貢献しています。
阪神タイガース時代のエピソードとして有名なのは、敬遠球をサヨナラ安打にした打席でしょう。
敬遠球の外し方が甘いのを見逃さずに外角球を強引にスイング。
見事、レフト前ヒットにして勝利を勝ち取りました。
型破りなバッティングは今もなお語り継がれているのです。
ニューヨーク・メッツ時代
2001年にニューヨーク・メッツに移籍するとMLB移籍後1年目からレギュラーを獲得。
日本人で初めてMLB球団の4番を務めます。
移籍時は、当時のメジャー選手の最低補償額である年俸20万ドルで契約するなど、評価は高くありませんでした。
チーム内での位置づけも控えの外野手でしたが、起用されればよい場面でヒットを放ち、外野守備では好守を連発。
結果、貴重な外野のオールラウンダーとして活躍したのです。
サンフランシスコ・ジャイアンツ時代
メジャー2年目には、トレードでサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍しています。
持ち前の守備力が評価され、外野手のレギュラーとして118試合に出場。
チームのワールドシリーズ出場に貢献し、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場したのです。
この時のサンフランシスコ・ジャイアンツには、全盛期のバリー・ボンズが在籍していました。
新庄剛志は、左中間の打球はすべて取ると宣言し、バリー・ボンズが打撃に集中できるよう守備面をサポートしたのです。
バリー・ボンズは新庄剛志のことを「とてつもないセンター」だと語るなど、守備に関して絶対の信頼をおいていたのです。
北海道日本ハムファイターズ時代
2004年からNPBへの復帰を果たした新庄剛志。
最初にオファーをくれた球団と契約するという宣言どおり、最初に名乗りをあげた北海道日本ハムファイターズと契約しています。
入団発表会見でチームを日本一にすると宣言。
宣言どおり、自身のラストシーズンである2006年に日本一を達成したのです。
また、森本稀哲らとともに、ド派手な演出で球場を盛り上げ、ファンを魅了しました。