時代劇をはじめ、ドラマや映画、CMなど今やその姿を見ない日はないと表現しても過言ではない活躍を見せている松平健(まつだいら けん)。しかし、俳優人生が軌道に乗るまでには様々な苦難がありました。
さらに、松平健の存在が幅広い層に認知された「マツケンサンバ」がヒットした裏では、多くの葛藤もあったようです。今回は2024年に芸歴50周年を迎える松平健の経歴や魅力を徹底解説したいと思います!
目次
松平健のプロフィール
【新年のご挨拶】
新年あけましておめでとうございます🎍
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- 本名:鈴木 末七(すずき すえしち)
- 生年月日:1953年11月28日
- 出身地:愛知県豊橋市
- 身長:177cm
- 血液型:B型
松平健は時代劇やドラマなど、今でも多彩な活躍を見せている人物。特に「暴れん坊将軍」は、これまでに全12シーズンが制作されており、終了後もスペシャルドラマが放送されるほどの人気を獲得しました。松平健の名刺代わりとなる作品として知られています。
また、2004年には「マツケンサンバⅡ」が大ヒット。その年の「第55回NHK紅白歌合戦」でステージを披露すると、翌年には社会現象ともいえるほどの大ヒットを巻き起こしたのです。
2024年には芸能生活50周年を迎えますが、その実績にあぐらをかくことなく、YouTubeでZ世代とコラボをしたり、声優に挑戦してアニソンのイベントにも参加するなど、精力的な活動を行っています。
松平健の経歴
子供の頃から映画館に通って映画を見るのが好きだったという松平健。彼が16歳のときに見た石原裕次郎の映画「太平洋ひとりぼっち」が、彼の人生を変えることに。当時、松平健は地元の工業高校に通っていましたが、中退して俳優を目指し上京することを決めました。
しかし、既に父が他界していたこともあり、彼の上京に賛成する人は少なかったそう。そんな中、彼の背中を押してくれたのが母でした。家計が苦しいにもかかわらず、上京資金を手渡して送り出してくれた日のことは、今でも忘れられないと言います。
上京後、松平健が向かったのは石原裕次郎の自宅。今では考えられないことですが、当時は雑誌に芸能人の住所が記載されており、彼はその住所を頼りに直談判に向かいました。しかし、残念ながら門前払いを受け、別の養成所に入ることになったのです。
松平健のドラマデビューは1972年の「マドモアゼル通り」で、この時期に松平健という芸名を名乗るようになりました。
勝新太郎との出会い
松平健が21歳のとき、勝新太郎と出会います。この出会いがきっかけで松平健は勝プロダクションに入所、勝新太郎の付き人を始めました。師匠となった勝新太郎の元で学びながら彼が主演した「座頭市物語」に出演を果たすと、翌年にはドラマ「人間の條件」で主演に抜擢されています。
「人間の條件」は松平健が主演する以前から映画化やドラマ化がされていたほどの作品で、昼の時間帯に放送されていたこともあり、様々な層が彼のドラマを視聴しました。しかし、あまりにもドラマのイメージが強すぎたのか、その後は望んでいたような仕事は来なくなったといいます。
実際は友情出演や、有名俳優の相手役として出演してほしいという依頼はあったそうですが、勝新太郎から「主役以外はするな」と言われていたこともあり、松平健は自分の気持ちを抑えて、師匠の言葉を守りました。
暴れん坊将軍放送開始
仕事がない間は、勝新太郎の付き人として撮影現場からキャバレーまで、ありとあらゆる場所に出向き、彼の仕事に対する姿勢や立ち振る舞いを学びました。そしてついに松平健の代表作ともいえる「暴れん坊将軍」の出演が巡ってきます。
「暴れん坊将軍」は、1978年に放送が開始された時代劇。当時、松平健は23歳で、淡麗な容姿も相まってイケメン俳優としても知られるように。しかし、撮影当時は大河ドラマの撮影もあったため、かなりハードなスケジュールの中、撮影に臨んでいたそう。
「暴れん坊将軍」は制作時に「将軍が市民の生活に紛れて悪を成敗する」という現実とはかけ離れた内容に議論の声もあがりましたが、徐々に視聴率が上がり、大人気番組へと成長していきました。
また「暴れん坊将軍」の放送時間帯が土曜日の午後8時ということもあり、子供からお年寄りまで様々な層に視聴されるようになったのです。