真矢ミキ(真矢みき) プロフィールや宝塚時代~現在の活動を徹底解説

真矢ミキ(真矢みき) プロフィールや宝塚時代~現在の活動を徹底解説

「宝塚の革命児」と謳われた真矢ミキをご紹介します。

元宝塚歌劇団花組トップスターとして活躍し、退団後は女優として唯一無二の魅力を放っています。

この記事では、真矢ミキの生い立ちから宝塚を目指したきっかけ、さらに宝塚時代から現在の活躍を徹底解説していきます。

真矢ミキ(まや みき)とは


真矢ミキのプロフィール

  • 本名:西島 美季(旧姓:佐藤)
    生年月日:1964年1月31日
    出身地:広島県広島市生まれ、大阪府豊中市育ち
    身長:166㎝
    血液型:O型
    星座:みずがめ座
    特技:歌、ダンス、日舞、バトン、作詞
    趣味:旅行、絵、地図(測量や地理、地形の話をするのが好き)

宝塚を目指したきっかけ

中学生当時、大阪府豊中市に住んでいた真矢。電車の中で可愛らしく清楚な制服に身を包んだ少女が目に留まります。

真矢が乗っていた電車は、阪急電鉄の宝塚線で終点は宝塚。その制服は宝塚コドモアテネのものでした。

MEMO

宝塚コドモアテネは、宝塚音楽学校が主催する日曜教室。宝塚音楽学校内にあり、設備と講師陣を活用して声楽やバレエ、日本舞踊のレッスンなどを行います。

真矢の母は元々宝塚のファンだったため、娘が興味を示したことに喜び、早速情報収集を始めました。

1976年、星組公演の「ベルサイユのばら」を初観劇した真矢。

当時は男役よりも娘役に興味を惹かれ、男役の派手な化粧に違和感を覚えたこともあり、すぐさま宝塚にハマったわけではなかったそう。

その後、鳳蘭初風諄の主演舞台を観劇し、宝塚コドモアテネへの入学を決意しました。

中学1年生の頃から毎週日曜日にコドモアテネへ通いだした真矢。

バレエやピアノは幼少期から習っていた子も多く、何もかもが初めてだった真矢はすでに劣等感を抱いていました。

しかし、着物には以前から興味があり、家でもごっこ遊びをするほど憧れがあったため、舞踊の授業はとても好きだったそう。

そんなある日、コドモアテネの更衣室で同級生が自分について話しているのを聞いてしまいます。

それは「宝塚を受けても(真矢は)何もできないからどうせ受からない」といった内容で、ショックを受けつつも図星であることに気づきます。

それからやる気に一気に火が付いた真矢は、宝塚音楽学校の受験を決意

学校や塾に加えて声楽やバレエのレッスンにも邁進し、高校受験を終えてから宝塚受験に挑むと、見事一発合格を勝ち取りました。

【宝塚時代 Part.1】 宝塚音楽学校入学から新人公演主演まで

宝塚合格も成績は振るわず

高い倍率を乗り越え、無事に宝塚音楽学校に入学するも、成績は39人中37位でした。

必須科目だった歌やバレエはほぼ未経験受験のために詰め込んだ状態だったため、周りになかなか追いつけず、当初は自分のことを「劣等生」だと感じていたそう。

真矢が入学した67期生は美人の期としても有名で、同期には黒木瞳や涼風真世など華々しい面々が揃っていました。

同じころに家族は千葉へ引っ越したため、真矢は若干15歳で寮に入り、自分のすべてを宝塚に注ぐことになります。

大地真央に目覚めた予科生時代!宝塚を研究する日々

宝塚をあまり知らないまま音楽学校に入学した真矢は、本格的に宝塚の魅力にハマっていくようになります。

音楽学校に隣接する大劇場へあしげく通い、当時月組トップスターだった大地真央の舞台に夢中になっていました。

これまで興味がなかった男役に目覚め髪も一気に短くしたそう。

強烈な宝塚ファンとなった真矢は、たびたび授業をサボっては先輩たちの舞台を見に行っていました。

宝塚歌劇団花組に入団!初舞台から挫折、新人公演での主演

宝塚音楽学校を卒業後、1981年に宝塚歌劇団に入団

母が命名してくれた「真矢みき」として活動を始め、花組の「宝塚春の踊り/ファーストラブ」初舞台を踏みます。

芸名の由来として、実家に飾ってあった破魔矢を見た母が「真っすぐな心を持って、矢のように進んでほしい」と思い名づけました。

ついに宝塚で初舞台を踏んだものの、なかなか真矢にスポットライトがあたることはありませんでした。

同期が全国ツアーのメンバーに選抜される中、真矢はなかなか思ったようなスタートを切れず、理想と現実のギャップに苦しんでいました。

新人公演も結局は成績順で上から良い役がもらえるため、アピールしようにもチャンスがない状態だったのです。

MEMO

「新人公演」とは、宝塚大劇場や東京宝塚劇場で上演中の演目を、宝塚歌劇団入団7年目までの出演者のみで上演する公演。

18歳になったころ、次第に退団することを考え始めた真矢。成人前だったこともあり、まだ別の道でもやり直せると考えていました。

母へそのことを電話で相談してみると「真矢みきの印字にスミレの花の絵を添えたハンカチを親戚中に配ったばかりで恥ずかしいから、せめてあと2、3年は続けなさい」と諭された真矢。

この時、珍しく母が怒っていると察知した真矢は、もうしばらく宝塚を続けていくことにしました。

これが功を奏し、1983年には入団3年目で「メイフラワー」の新人公演の主役に抜擢されます。

当時、花組のトップスターは髙汐巴、準トップは大浦みずきといったそうそうたる面々。

大人の魅力で観客を圧倒していた時代に、当時19歳ながら真矢も食いついていきました。

1985年には「愛あれば命は永遠に」「テンダー・グリーン」新人公演で主役を務めた真矢。

二作連続での主役抜擢に喜んでいたのも束の間、その次の新人公演では後輩に主役を取られ、真矢は三番手に留まりました。

それでも研鑽を積みつづけ、理想の男役である大地真央や髙汐巴の背中をひたすら追い続けていったのです。

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