松田聖子 – 時代を超えて愛される永遠のアイドル!その経歴や魅力を徹底紹介!

松田聖子 – 時代を超えて愛される永遠のアイドル!その経歴や魅力を徹底紹介!

80年代を代表するアイドルであり、時代を超えて愛される歌手・松田聖子

本記事では松田聖子のプロフィールや経歴を紹介。彼女が後のアイドル文化に与えた影響にも触れつつ、その魅力に迫ります。

松田聖子とは?

  • 出生名:蒲池法子
  • 誕生日:1962年3月10日
  • 出身地:福岡県久留米市

1980年4月のデビュー以来、40年以上の活動歴を誇るトップアイドル・松田聖子。

芸能界に華麗に舞い降りた彼女は、後のアイドル文化に影響を与えるほどのパワーで80年代を駆け抜け、日本を代表するアイドルに。

その一挙手一投足は注目を集め、なかでも下ろした前髪とブローが特徴の「聖子ちゃんカット」は当時の女性たちがこぞって真似をするほどの流行になりました。

MEMO

後続のアイドルたちが同じ髪型でデビューする中、1982年1月に聖子は先んじてショートヘア姿を披露し、ファンを驚かせます。

有名人にもファンが多く、例えば歌手の森口博子は憧れの存在として聖子を挙げています。

これまで送り出してきた楽曲は色あせない魅力を放ち、多くのアーティストによりカバーされているのも聖子ならでは。今を生きる若者世代からも大きな支持を集めます。

常に第一線を走り続け、デビューから40年を超えた今も、聖子は日本の音楽シーンで存在感を発揮。

2021年10月に発売したアルバム『続・40周年記念アルバム「SEIKO MATSUDA 2021」』は、「オリコン週間アルバムランキング」(2021年10月26日発表)で4位を獲得しています。

同アルバムで「アルバム通算TOP10入り獲得作品数」記録を53作に更新し、女性アーティストでは浜崎あゆみに並ぶ1位タイを達成しました。

永遠のアイドルであり、女性が憧れる女性としても輝きを放つ松田聖子。次の項目からは彼女の経歴を振り返り、その足跡をたどります。

松田聖子の経歴

デビューのきっかけ

始まりは1978年。CBS・ソニーと集英社が開催した「ミス・セブンティーンコンテスト」の九州地区大会で、高校生の聖子はグランプリに輝きます。

しかし、父親の反対で全国大会に出場することは叶わず。そんな中、若松宗雄との出会いが聖子の運命を大きく動かします。

当時CBS・ソニーでディレクターをしていた若松は、聖子の歌唱を記録したカセットテープを聴き、その声に感動。

久留米市まで訪れた若松が聖子に持ち掛けたのは、コンテストとは関係なくデビューをさせたいとの提案でした。

MEMO

コンテストで聖子が歌っていたのは、桜田淳子の『気まぐれヴィーナス』。
この時、履歴書などの資料を見ることはなく、若松は声のみで聖子に注目しました。


歌手を目指す固い意志

思いがけず目の前に現れたデビューの話でしたが、聖子の父親は大反対!

厳しい状況に立たされるも、若松とは手紙を通じてやり取りを続けていた聖子。手紙で一貫していたのは、何としても歌手になるという固い意志でした。

どれだけ反対されても諦めない聖子の決意は、ついに父親を動かします。

ここまで実に1年以上。聖子の歌手になる夢が大きく前進します。

上京

事務所は「サンミュージック」に所属が決定した聖子。

元々高校卒業後に上京予定でしたが、歌手を志す高校3年生の聖子はすぐに東京へと向かいます。

事務所社長の相澤秀禎の家に下宿し、高校は堀越学園に転入。レッスン、学業と忙しい日々を送る一方、当初は明確なデビューの日取りが決まっておらず、聖子は不安な日々を過ごしました。

そんな中、聖子はドラマ「おだいじに」で演技を披露する機会に恵まれ、ラジオ番組や若者向けの公開音楽バラエティ番組「レッツゴーヤング」への出演も果たします。

少しずつ芸能活動が増え、聖子が歌手デビューを目前に控えた1980年3月。70年代を象徴するトップアイドルの山口百恵が、その年の10月で引退することを発表し、世の中に衝撃が走りました。

デビューと快進撃

そして1980年4月1日にシングル『裸足の季節』で、ついに歌手デビューを実現した聖子。
同曲はCMタイアップに起用され、力強く伸びやかな聖子の歌声は大きな話題を集めました。

MEMO

デビュー曲のタイトルは最初『ハイヌーンは熱く』でしたが、発売前の公開ラジオ番組で歌った後、その日のうちに現タイトルに変更されました。

続く、サビ始まりで爽やかな2枚目のシングル『青い珊瑚礁』は、さらに多くのファンに受け入れられ大ヒット。聖子の認知度を一気に高めます。

MEMO

聖子の初期イメージを作り上げた作詞家の1人、三浦徳子(みうらよしこ)は聖子のカラーを「淡いピンク」に決め、モスグリーンなどピンクに合う色を歌詞に登場させました。

そして3枚目のシングル『風は秋色/Eighteen』で、初めてオリコンチャート1位に。ここから聖子はシングル24作連続1位の記録を積み上げることになります。

また「第22回 日本レコード大賞」新人賞を初め、多数の賞を獲得。1980年12月31の「第31回 NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たし、デビュー1年目から人気アイドルとして大躍進を遂げます。

フリルのついた可愛らしい衣装や、とびっきりの笑顔、そして圧倒的な声量。キラキラしたアイドルの魅力を爆発させた聖子の登場は、新たな時代の幕開けを予感させました。

MEMO

当時はテレビ番組などに引っ張りだこで、シングルを出すのは3ヵ月に1回と多忙な日々。なんとレコーディング当日に初めて新曲を渡され、聖子は楽曲制作に臨みました。

立役者・松本隆の登場

松田聖子の人気に大きく貢献したのは、実に100曲以上の楽曲で作詞を手掛けた松本隆

70年代を代表する伝説のロックバンド「はっぴいえんど」でドラムと作詞を担当し、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』などで成功を収めた作詞家です。

MEMO

松本は初めて聖子のデビュー曲をテレビで耳にした際、「声だけ聞いてこの子は僕に合うなと思った」と語っています。

1981年5月発売のアルバム『Silhouette』収録の『白い貝のブローチ』で、松本が初めて作詞を担当。
そして同年7月発売のシングル『白いパラソル』を手掛けて以降、聖子を象徴する名曲を数多く送り出しました。

なかでも1982年1月に発売したシングル『赤いスイートピー』は、聖子を代表する1曲に。

松本の色鮮やかな言葉に、呉田軽穂こと松任谷由実の切ないメロディ、そして聖子の表現力豊かな歌唱が合わさった珠玉の名曲です。

MEMO

松本がこの楽曲で描き出したのは「繊細な心の動き」と「微細な心境の変化」。

同楽曲は女性ファンの共感を呼び、多くの支持を集めました。

楽曲を発売する度にヒットを記録し、全国で開かれるコンサートも大盛況。名実共にトップアイドルとなった聖子の勢いは、さらに加速していきます。

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新たな挑戦の舞台へ

1988年9月発売のシングル『旅立ちはフリージア』で、シングル24作連続チャート1位を成し遂げた聖子は新たな挑戦の舞台へ。

以前から聖子は、海外の著名プロデューサーと楽曲制作を行い、着実にステップアップしてきました。

  • アルバム『sound of my heart』(1985年8月発売)
    フィル・ラモーン(ビリー・ジョエルなどの楽曲をプロデュース)
  • アルバム『Citron』(1988年5月発売)
    デイヴィッド・フォスター(マドンナなどの楽曲をプロデュース)

そして数々のコラボレーションを経て、1990年6月発売のアルバム『Seiko』で、聖子は全米デビューを実現。

アメリカ進出について、多くの出会いを得た一方、自身の言葉で意見を主張する必要があり、厳しさも感じたと聖子は語っています。

シンガーソングライターとしての才能を開花

1990年代からは自作の楽曲が増え、聖子はシンガーソングライターとしても存在感を強めます。

以前から作詞や作曲を行い、その才能の豊かさをあらわにしてきた聖子。

MEMO

1983年6月発売のアルバム『ユートピア』収録の『小さなラブソング』で初めて作詞

そして、1983年12月発売のアルバム『Canary』では、同名の楽曲で初めて作曲を行っています。

1992年3月発売のアルバム『1992 Nouvelle Vague』では、聖子が作詞に加えて小倉良との共作で作曲も担当し、初めてセルフプロデュースを行いました。

そして、聖子が作詞と作曲(同じく小倉良との共作)を務めたシングル『あなたに逢いたくて~Missing You~』(1996年4月発売)は、初のミリオンセールスとなり自身最大のヒットを記録します。

自作曲の大ヒットは、聖子が1人のアーティストとして、さらなる高みに到達したことを多くの人に印象付けました。

さらに広がる活躍の舞台

その後も楽曲の発表やコンサートを精力的に行い、常に第一線を走り続ける聖子。

近年は新たな試みにも挑戦しており、本格的なジャズを披露したアルバム『SEIKO JAZZ』(2017年3月発売)はその1つでしょう。

2011年、マイケル・ジャクソンなどのプロデュースを手掛けた、世界的なジャズミュージシャンのクインシー・ジョーンズからのすすめで、聖子はジャズへの挑戦を決意。

その後、名門ジャズレーベル「Verve Records」から発売された同アルバムは、米ハイレゾ最大手配信会社「HD tracks」のジャズ部門で第2位、ベストセラー部門で第4位を獲得する快挙を成し遂げます。

MEMO

深みを増した聖子が放つ全編英語詞の楽曲群は、聴けば聴くほど味わい深く、聖子の歌声とジャズの親和性の高さが絶妙です。

アイドルとしてまぶしいほどの光を放ち、今なお活躍の幅を広げる聖子の勢いは止まるところを知りません。

松田聖子がアイドル文化に与えた影響

ここからは「松田聖子」の登場が後のアイドル文化に与えた影響について迫ります。

空前のアイドルブームの到来

聖子がデビューした1980年は、アイドル歌謡が一時の勢いを失い、70年代後半から台頭したニューミュージックに人々の興味が向かっていた時期でした。

そんな中、デビュー時から大きな成功を収めた聖子は80年代のアイドルブームをけん引。日本の音楽において、アイドル歌謡が息を吹き返します。

MEMO

「花の82年組」と呼ばれる、中森明菜小泉今日子など1982年にデビューした人気アイドルたちの活躍を初め、聖子の登場以降に次々と人気アイドルが誕生しました。

新たなアイドル像の提示

アイドルといえば、いつかは引退の日が訪れるもの。

一方で、結婚・出産を経てなおアイドルとして活躍する聖子の姿は、アイドルに対する価値観を一変させました。

このように、聖子は新たな道を切り開き、アイドル文化に大きな変革をもたらしてきたのです。

松田聖子の魅力

多方面において魅力を持つ松田聖子。ここでは彼女の魅力を2つ紹介します。

文学性と音楽性を両立させた楽曲

新曲を出す度に結果を残してきた聖子。彼女の楽曲制作について、ディレクターの若松は一つ一つの楽曲を素晴らしいものにするよう意識してきました。

若松が聖子に対して考えたコンセプトは、「文学性」「音楽性」を両立させること。

聖子が一躍スターとなった80年代において、2つのコンセプトは三浦徳子や松本隆などによる魅力的な詞の世界、財津和夫や松任谷由実などの高い音楽的センスが融合した楽曲群に結実。

そして、そこに聖子の天性の歌唱力が加わることで、化学反応が生まれます。聖子はどれだけ難しい楽曲でも歌いこなし、全て自身の歌へと昇華してきました。

MEMO

歌謡曲とニューミュージックが絶妙に絡み合ったのが聖子の楽曲。

なかでも聖子の楽曲にはロックバンド「はっぴいえんど」のメンバー全員(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)が参加しているのも面白い点です。


※作詞・松本隆、作曲・大瀧詠一の楽曲

プロデュース力の高さ

聖子は自身のヘアスタイルやメイクを初め、あらゆる面でプロデュース力の高さを発揮してきました。

セルフプロデュースを務めたアルバム『Vanity Fair』では、当時日本で馴染みのなかったロビー・ネヴィルと組み、楽曲『Darling You’re The Best』を制作。

また、コンサートにおいても衣装から照明に至るまで自らプロデュースを行っており、その才能の豊かさには目を見張るものがあります。

松田聖子のおすすめ楽曲3選

ここからは松田聖子のおすすめ楽曲を3つ紹介します。

渚のバルコニー

1982年4月発売のシングル。

聖子が「歌うとすごく幸せな気持ちになる」と語った楽曲。サビの部分でメロディーがどんどん盛り上がりを見せ、聴く者の心に高揚感をもたらします。

歌詞にある<馬鹿ね>の部分について、当初は聖子がうまく歌えるかどうか気にしていた松本隆。

そんな中、聖子は該当の歌詞を可愛く表現してみせ、見事に松本の期待に応えました。

明るさと共に切なさが伝わってきて、1本の映画を観終わったかのような満足感が得られる楽曲です。

SWEET MEMORIES

1983年8月発売のシングル『ガラスの林檎』のB面に収録された楽曲。

MEMO

アナログレコードでは表と裏の両面に楽曲を収録。CDで言えば表のA面にタイトル曲、裏のB面にカップリング曲が対応しています。

作詞は松本隆、作曲は聖子のデビュー初期から編曲に携わってきた大村雅朗(おおむらまさあき)

本楽曲はデビュー曲『裸足の季節』と同様にCM曲として起用され、CMでは歌手名の記載もありませんでした。

英語詞を含むジャズ調の楽曲をしっとりと歌い上げた聖子の歌声は大きな話題となり、CMを見た視聴者から問い合わせが殺到。

発売当初はシングル『ガラスの林檎』のB面だったものの、後に両A面シングルとしてジャケット違いが発売され、大ヒットを記録しました。

MEMO

同じく大村が作曲を手掛けた『セイシェルの夕陽』はアルバム収録曲ながら、ファン人気の高い楽曲。

※アルバム『ユートピア』収録

瑠璃色の地球

1986年6月発売のアルバム『SUPREME』に収録された楽曲。

MEMO

『SUPREME』は聖子の活動休止期間中に発売。シングル曲の未収録も何のそので、70万枚を突破。アルバムにおいて自身最大のヒットを記録しました。

2020年には松本隆の呼びかけにより、リモートでつながった約200人による本楽曲の合唱企画が開催。
明日への希望に満ちた言葉は多くの人に勇気を与え、再び大きな注目を集めます。

そして同年、聖子は本楽曲を『瑠璃色の地球 2020』として新たに歌いました。

今を生きる全ての人々の心を優しく包み込む、壮大なバラードです。

最後に

永遠のアイドルとして異彩を放ち、時代を超えて愛される松田聖子。

応援してくれるファンを大切にしつつ、新たな挑戦を続ける彼女の存在は唯一無二です。

今後も松田聖子はより一層輝きを増し、私たちに大きな感動を与えてくれることでしょう。

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