1986年にデビューを飾り、今年2021年で活動歴35年目を迎えた徳永英明。
一度耳にすると頭から離れない甘い声質、心に染みわたるハートフルなメロディ、一音一音を大切に語りかけるような歌い方は、多くの人を虜にしてきました。
「レイニーブルー」「輝きながら…」「壊れかけのRadio」など数々の名曲を生み出した徳永英明ですが、デビュー前に挫折を味わっていたことや、2度も病を乗り越えたこと、ご存知ですか?
今回は徳永英明のこれまでから、J-POP史を彩った代表曲まで、幅広く紹介していきます!
目次
徳永英明のこれまで
挫折も味わったデビュー前:徳永英明と父の約束
- 本名:徳永英明(とくながひであき)
- 生年月日:昭和36年2月27日
- 出身地:福岡県柳川市生まれ/兵庫県伊丹市(中学~高校時代)
- 血液型:A型
- 身長・体重:175cm・63kg
中高生の頃から歌手を目指していた徳永英明。高校を卒業した後は、歌手を夢見て上京し、人脈づくりのために俳優養成所「緑山塾」に入塾しました。アルバイトで生活費を稼ぎながら、ライブをしたり、自作のデモテープを売り込んだりと、懸命に毎日を過ごしていました。
ここまで真剣に取り組んだのは、父との約束があるから。なんと、「25歳までにデビューできなかったら、保険の仕事をしろ」と言われていたのです。
そんな徳永英明に転機が訪れたのは、数多くの昭和スターが生まれたオーディション番組「スター誕生!」への出演。本田美奈子・松本明子らと決勝大会に進出したものの、惜しくもスカウトには至りませんでした。
しかし、そこで夢を諦めないのが徳永英明。その後も精力的に挑戦し続け、1985年に行われた第2回マリンブルー音楽祭ではグランプリを受賞します!
その後、マリンブルー音楽祭の主催者である上野義美が手がけるロックミュージカル「はらじゅくグラフィティ」の主演・TONY役の座を射止めます。実は歌手デビューする前に、俳優としても活動していたのでした。
彼の公式ファンクラブ「TONY’S CLUB」は、この時の役名「TONY」が由来となっています。
そしてついに、翌年の1986年1月。徳永英明は「レイニーブルー」でデビューを飾ります。
この時彼は24歳10ヶ月。父と交わした「25歳までにデビュー」という約束を、見事果たすことができたのでした!
「輝きながら…」「最後の言い訳」ヒット連発の陰にあった苦悩
1986年のデビュー後、徳永英明はヒット曲を連発させます。
1987年に発表したシングル「輝きながら…」はオリコンランキングで4位を獲得。当時昭和歌謡の番組として知られていた「ザ・ベストテン」と「歌のトップテン」にランクインし、徳永英明の名を更に広めることになりました。
その後も「風のエオリア」「最後の言い訳」でまたもオリコンランキングで4位を獲得するなど、立て続けにヒットを記録します。
しかし、「輝きながら…」は大津あきらが作詞、鈴木キサブローが作曲を手がけています。「風のエオリア」「最後の言い訳」も、作曲はしているものの、作詞は手がけていません。
華々しいヒットの陰では、シンガーソングライターなのに自分で作詞・作曲してない曲で売れていいのか…?という苦悩があったそうです。
念願の日本武道館コンサート、「恋人」「夢を信じて」「壊れかけのRadio」ヒットにより自信を取り戻す
1988年には、念願の日本武道館で、コンサートを行います。
実は、徳永英明は俳優養成所「緑山塾」に在籍していた時に、5年後に日本武道館のステージに立つと宣言していました。
1966年に世界的ロックバンド・ビートルズがライブを行ったことをきっかけに、日本武道館は多くのアーティストにとっての憧れのコンサート会場でした。
しかし、日本武道館は1万人以上を収容できる会場です。当時は5桁もの人数を動員できるアーティストは限られていたため、周りの人からしたら、まだデビューもしていない徳永英明の「武道館宣言」は滑稽に見えたことでしょう。
しかし、その発言から本当に5年で、夢を叶えることができました。
そして翌年1989年に自身で作詞・作曲を手がけた「恋人」をリリースし、オリコンランキングでは最高7位を記録。更に1990年には自身の最大ヒット作「夢を信じて」、歌番組などで未だに多くの著名人にカバーされている「壊れかけのRadio」と立て続けにヒット曲をリリースしています。
日本武道館コンサートの成功と、数々のヒット作により、シンガーソングライターとしての自信を、無事取り戻すことができました。
立ちはだかる試練…病との闘い
わたしたちは、喉にある声帯を振動させることで、おしゃべりや歌を楽しむことができます。
この声帯にポリープ(ふくらみ)ができると、うまく声帯を振動させられず、かすれたような声や、呼吸のしにくさが目立つようになります。
徳永英明の喉にも、ポリープができてしまいました。1993年、彼は苦渋の末に全国ツアーを延期させ、ポリープの除去手術を行います。
喉にメスを入れ、術後約1週間は絶対に声を出せないという歌手にとっては過酷な治療でしたが、その後は驚異の回復力を見せ、3ヶ月半にわたる39公演を成功させたのでした。
ところが、徳永英明を襲ったのは声帯のポリープだけではありません。
家庭をもち、プライベートも充実を見せ始めた2001年に、もやもや病でツアーを中止することになります。
もやもや病とは、脳へ血を巡らせる血管が詰まってしまう病気です。脳に血が行きわたらないことにより、手足のしびれや口が回らなくなってしまうなど、身体が思うように動かせなくなってしまいます。
翌年の2002年には一度快復を見せますが、この病は後に、再び徳永英明を苦しめることになります。
渾身のカバーアルバム「VOCALIST」
2005年、徳永英明が発表したアルバム「VOCALIST」
これは中島みゆきの「時代」、一青窈の「ハナミズキ」など、女性アーティストの楽曲をカバーしたアルバムです。
「VOCALIST」は週間オリコンランキングで5位を獲得し、日本ゴールドディスク大賞ではそのコンセプトが評価され「企画アルバム・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。「VOCALIST」は2年以上もオリコンアルバムランキングにランクインし、カバー作品としては初めて200週連続でランクインするなど、ロングヒットを記録しました。
同じコンセプトのもと、翌年2006年は「VOCALIST 2」、2007年に「VOCALIST 3」、2010年に「VOCALIST 4」と、続編を次々と発売しました。
この「VOCALIST」シリーズは全体でCD売上600万枚を突破しています。世間にどれだけ支持されているかが分かりますね!
「VOCALIST」のあまりの人気ぶりに、2015年の紅白歌合戦出場の際に「『VOCALIST』からだったら(選曲は)なんでもよいですよ」と言われたことを明かしています。
徳永英明の代表曲
失恋や懐古をテーマにしたバラードで名を馳せた徳永英明。
今回は彼のオリジナル曲の中から、珠玉のバラードを5曲紹介します。
デビュー曲「レイニーブルー」
アマチュア時代から大切に歌い続けてきた曲「レイニーブルー」。様々なライブで苦楽を共にしたこの曲で、徳永英明は1986年にデビューします。
作曲は徳永英明、作詞は大木誠が手がけています。
何度もサビ“レイニーブルー 終わったはずなのに”を繰り返しているところが、なかなか断ち切ることのできない未練を表しているかのようです。
最後はより感情を込めて“あの頃のやさしさに つつまれてた想い出が”と歌い上げており、抑えきれない気持ちが伝わります。
ちなみに、1997年には編曲版「Rainy Blue ~1997 Track~」をリリースしています。
サビ前では、囁くような歌い方が強調されつつ、サビでは力強く歌っているため、より緩急がつけられています。2番のサビとサビの間、また後奏のギターのサウンドが、オリジナル版とは違った雰囲気を演出しています。
「輝きながら…」
1987年にリリースされた、徳永英明4枚目のシングル。南野陽子が出演する富士フイルムのCMに使われました。
作曲は中森明菜に「DESIRE -情熱-」を提供したことで知られる鈴木キサブロー、作詞は日本作詩大賞大衆賞を受賞した大津あきら。
サビ“駆け出す君の 場面を見守るから 輝きながら…大人のドアをあけて”という歌詞に、直視できないくらいまぶしい輝きもありつつ、ほのかに甘酸っぱさが香ります。
爽やかでありつつも、2度と戻ってはこない青春時代を思い起こさせてくれるような1曲です。
「最後の言い訳」
1988年にリリースされた、徳永英明6枚目のシングル。テレビドラマ『直木賞作家サスペンス』の主題歌です。
作曲は徳永英明、作詞は吉川晃司「You Gotta Chance 〜ダンスで夏を抱きしめて〜」、浅香唯「セシル」の作詞を手がけた麻生圭子。
自分にとって“いちばん”だった女性が自分の元を去っていく哀しさを歌っています。
ラストのサビでは、“いちばん大事なものが いちばん遠くへ行くよ”の“行くよ”という部分だけ、それまでよりも音が高くなります。
恋人が離れていくことを分かっていつつも、引き止められない切なさが伝わります。
「夢を信じて」
1990年にリリースされた、徳永英明9枚目のシングル。テレビアニメ『ドラゴンクエスト』のエンディングテーマに使われました。
作曲は徳永英明、作詞は荻野目洋子「ダンシングヒーロー」の訳詞をしたことなどで知られる篠原仁志。
この曲ではカノンコードが使われています。
カノンコードとは、槇原敬之「どんなときも。」やZARD「負けないで」などのヒット曲によく見られるコード進行のことです。
話題のドラクエとのタイアップ、定番のカノンコードの進行など、様々な要因が重なり「夢を信じて」は39万枚を超える自身最大のヒット曲となりました。
今にも冒険が始まるかのような音楽に、胸が高鳴る1曲です。
「壊れかけのRadio」
1990年にリリースされた、徳永英明10枚目のシングル。徳永英明自身も出演したテレビドラマ『都会の森』の主題歌に使われました。
作詞・作曲ともに徳永英明が手がけており、カラオケランキングに登場するなど、今なお多くの人に愛されています。
有名なサビの“思春期に 少年から大人に変わる”という歌詞。それは「成長」でありつつも、一度大人になると少年には戻れないという、どこか切なさを感じます。
声変わりを彷彿とさせるような、徳永英明独特のかすれたようなハスキーボイスで歌うことにより、更にその切なさが強調されていますね。
まとめ
声帯のポリープやもやもや病を乗り越え、数多くのヒット曲を打ち出し、アーティストとして第一線を駆け抜ける徳永英明。
コロナ禍のためにLIVEを中止したこともありますが、それでもできることをやり続ける徳永英明。現在は公式のInstagramにて、自身が作詞作曲した楽曲や、カバーした楽曲を披露しています。
どんな時もひたむきに前を向く姿に、多くの人が勇気をもらっています。LIVEで直接その姿を見られる日が、待ちどおしいですね!