【オレ流】落合博満が歩む野球人生とその軌跡

【オレ流】落合博満が歩む野球人生とその軌跡


天才的なバッティング技術で、史上4人目となる三冠王を達成した落合博満さん。その技術で日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成した人物です。監督としては、その観察眼から「神眼」とまで呼ばれ、独自の采配から「オレ流監督」としても知られています。そんな落合さんが、どのような選手時代、監督時代を過ごしてきたのかを改めてご紹介したいと思います。

「オレ流」ってなに?

オレ流は、オレ流だよ

いや、それ答えになってない……

い、いいんだよ!今回はオレ流、落合博満さんについて紹介していきます!

落合博満のプロフィール

落合博満の基本情報


名前:落合 博満(おちあい ひろみつ)
出身地:秋田県南秋田郡若美町
生年月日:1953年12月9日(66歳)
身長:178cm
体重:82kg
投打:右投げ右打ち
背番号:6→60→3→66
ポジション:一塁手、二塁手、三塁手

プロ入団前

高校時代は練習にほとんど参加せず、それどころか体育会系特有の慣習に慣れずに退部してしまいます。

しかし、落合さん以上に実力のある選手がいなかったので、試合が近づくと部員たちに説得されて復帰を果たします。

練習にはほとんど参加せず、それでも四番打者として試合に出場していました。その後、復帰と退部を通算7回も繰り返します。

東洋大学に進学した後も、同じく体育会系の上下関係や体罰に嫌気が差して退部。そして大学も中退し、地元のボウリング場でアルバイトをするようになります。その影響で一時はプロボウラーを目指しますが、これも挫折してしまいます。

その後、母校を訪ねた際に才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めで、社会人野球の東芝府中に加わり、ここで頭角を現すようになります。

プロに入団から引退まで

1978年のプロ野球ドラフト会議でロッテに3位指名で入団を果たした落合さんですが、当時25歳という遅咲きのプロ野球選手でした。

最初こそはバッティングフォームを固めるのに苦労した落合さんですが、試行錯誤を繰り返すうちに自分に合ったフォームを見出します。それから徐々に成績を伸ばしてき、史上最年少で三冠王を獲得します。

その後も独自のバッティング理論で、数々の記録を挙げ、遂に日本史上唯一となる3度の三冠王を達成し、ロッテオリオンズ、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズと計4球団を渡り、球界に名を残しました。

引退後は解説者として活動を続け、2003年には中日の監督へと就任し「オレ流監督」としてチームをリーグ優勝まで導きました。

落合博満の主な経歴やタイトル

落合さんが現役時代に受賞したタイトルを一覧でまとめています。
打撃面において類まれなる成績を残し、また日本記録を多く残しました。また、選手時代だけでなく、監督時代の成績についてもまとめているのでぜひご覧ください。

選手時代タイトル

  • 首位打者:5回
  • 本塁打王:5回(両リーグ本塁打王は史上初)
  • 打点王:5回(両リーグ打点王は史上初、現在も唯一)
  • 最高出塁率:7回(受賞7回は歴代2位、右打者歴代1位)
  • 最多安打:1回
  • 最多勝利打点:5回(史上最多)

監督時代通算成績

  • 試合数:1150
  • 勝利:629
  • 敗戦:491
  • 引分:30
  • 勝率:.562
  • 備考:日本一1回、優勝4回、Aクラス8回、Bクラス0回

遅咲きのプロ入りでありながら、セ・リーグ、パ・リーグの両リーグを渡り歩き、唯一記録を叩き出すなど、落合さんの凄さがわかります。

落合博満の現役時代での活躍まとめ


ここでは、落合さんがプロ入り後にどのような道を歩んでいったのかを在籍していた球団ごとにまとめています。落合さんがどのような選手であったのかを記載しているので、ぜひご覧ください。

現役・ロッテオリオンズ時代

1978年にロッテから3位指名を受け、プロ入り時で既に25歳という遅咲きの選手として入団を果たします。

背番号は6番を付けており、後の巨人時代と日本ハム時代では60と3を付けていた時期もありました。それ以外は現役のほぼ全期間を6番で通しています。

入団当初、監督である山内一弘の熱血指導を煙たがっていました。また、バッティングフォームを矯正され「当時の自分では山内さんの打撃理論は理解できなかった」と語っています。

しかし、自身の打撃がある程度固まった頃に思い返すと、山内の指導が生きていたことを語ります。落合さんにとって山内監督は、数少ない敬愛する指導者でもありました。

ちなみに落合さんの代名詞である「神主打法」は、この時に基礎ができあがっていたと言われています。

当時ロッテに在籍していた土肥健二選手の打撃フォームを参考にしたもので、山内監督の打撃理論を理解できなった落合さんが、我流で編み出したものでした。

2年目にはレギュラー定着

2年目の1980年の後期シーズンより、レギュラーに定着します。後期は井上洋一選手に代わって二塁手として試合に出場し、計54試合に先発出場を果たします。

シーズン最後には三塁手を務め、打者としては15本塁打を記録します。

落合さんはこの年を振り返る際「稲葉光雄選手を打ち崩した7月26日の阪急線が私の分岐点であり、現役生活の開幕試合」と語っています。

翌年の1981年には、二塁手として開幕を迎え、7番打者としてチームに貢献しました。下位打線ではありましたが、打率.326、本塁打33本、90打点という成績を残し、首位打者に輝きました。また、守備においてはベストナインにも選ばれました。

史上最年少での三冠王を獲得

山内監督から、山本一義監督に交代した1982年では、4番セカンドで開幕を迎えました。

その後のシーズンでは3番を任されることが多くなりますが、打率.325、本塁打32本、99打点を記録します。そして、史上最年少で初の三冠王に輝きました。

また、2年連続でのベストナインにも選出され、最優秀選手にも選出されます。シーズン終了後の契約更改では、当時「ミスターロッテ」と呼ばれていた有藤通世選手を上回る額(年俸5,400万円+タイトル料600万円)で判を押しました。

そして、この年からチームの顔として活躍するようになります。

その後の1983年には、解雇されたレオン・リーに代わって一塁手を務めます。その年はチームが低迷し、落合さんもそれに呼応するように成績が振るいませんでした。3年連続の首位打者には輝きましたが、本塁打と打点は前年度に比べると低迷してしまいます。

2度目の三冠王を獲得

1984年、恩師である稲尾和久が監督として就任しました。自身は三塁手にコンバートされ、4番打者としてチームを牽引しますが、この年は不調に終わってしまい、連続タイトルが途切れてしまいます。しかし、ベストナインには4年連続で輝きました。

その翌年の1985年には、昨年の鬱憤を晴らすかのような好成績を残します。

打率.367、本塁打52本、146打点を記録し、自身2度目となる三冠王に輝きました。この時の打率は2008年に内川聖一選手が破るまで、右打者として歴代最高打率記録でした。また、5年連続のベストナインとして輝き、2度目の最優秀選手としても選出されます。

2年連続、3度目の三冠王を獲得

昨年の勢いのまま、1986年には打率.360、本塁打50本、116打点という驚異的な数字を残します。最終的に2年連続で3度目となる三冠王を獲得しました。

球界において三冠王を3度も達成したのは、落合さんのみです。また、ベストナインにも選出され、この年で6年連続となりました。

日本人初の1億円プレーヤー

1986年のシーズン終了後に、自身が敬愛する稲尾監督が解任されてしまいます

。落合さんは「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」とまで発言し、自身も「自分を一番高く買ってくれる球団と契約したい」と述べました。その後、中日ドラゴンズとの交渉がまとまり、落合対牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂という、4選手対1選手で交渉が決定します。この時の契約金で、落合さんは日本人初の1億円プレーヤーとなりました。

現役・中日ドラゴンズ時代

移籍後の1987年、打率はリーグ3位という記録を残しましたが、ナゴヤ球場の広さに本塁打が昨年のほぼ半分の28本まで減少してしまいます。また、タイトルもない年となってしまい、6年連続で受賞していたベストナインからも落選してしまいます。

続く1988年は、本塁打と打点こそはリーグ2位という数字を残していますが、打率は2.93に低迷します。自身としてはタイトルを獲得することはできませんでしたが、チームはリーグ優勝を果たします。

両リーグ初の打点王に輝く

翌年は、本塁打40本に116打点と打撃が好調となり、打点王に輝きました。両リーグで打点王に輝くのは、史上初の快挙でした。

1990年には数値こそ下回りましたが、本塁打王と打点王に輝きました。打点王に続き、本塁打王が両リーグで達成されるのも史上初です。

また、シーズンオフでは年俸を不服として調停しました。日本人選手として初めての調停申請でした。

2年連続本塁打王も、徐々に衰えが見え始める

2年連続となる本塁打王に輝いた1991年では、移籍後初となる首位打者も射程圏内でした。しかし、古田敦也選手に破れてしまい、2位に終わってしまいます。

1992年、1993年の2年間はタイトルが無く、衰えが見え始めた年でした。しかし、1993年には両リーグ200本塁打という偉業を達成しました。

同年、導入されたフリーエージェント制度を利用してFA宣言をし、巨人へと移籍しました。

現役・読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズ時代

巨人へ移籍した頃には、既に40歳を超えていました。しかし、長嶋茂雄政権初期の巨人打線の主軸として活躍します。この時、篠塚和典選手が背番号6を背負っていたため、代わりに60番を付けていました(篠塚選手が引退後の1995年からは6番に変更)。

1994年から1996年の3年間を過ごした巨人では、死球などによる怪我に苦しみながらも、主軸打線としてチームに大きく貢献しました。1995年には2000本安打を達成し、1996年には史上7人目となる通算500号本塁打を記録します。また、史上7人目の通算1500打点という偉業を達成します。

同年、西武からFAで移籍してきた清原和博選手と代わるように巨人を離れ、日本ハムファイターズへ自由契約で入団します。

日本ハムファイターズへと移籍

1997年、日本ハムに移籍した落合さんでしたが、前年に受けた死球による怪我の影響で打率が低迷してしまいます。翌年の1998年には開幕を4番で任されるも、打率が.300を切った頃に打順を下位に下げられてしまい、西浦克拓選手が4番を張るようになりました。

現役引退

日本ハムの「ビックバン打線」の元年ともいえる年でもあったため、出場機会も徐々に減少していきました。

これにより落合さん自身も「戦意が失われた」と述べています。また、序盤の勢いが嘘のようにチームの勢いが落ちてしまい、ミーティングではコーチと怒鳴り合いになる事態にまで険悪となってしまいます。

そして1998年の10月7日のロッテ戦での代打出場を最後に、自由契約という形で現役を引退しました。その後は解説者を務め、2003年のオフに中日の監督として就任します。

落合博満の監督時代の活躍まとめ

選手として輝かしい功績を残して現役を引退した落合さんですが、その後は監督として手腕を振るいます。観察眼に長けており、それ故に「神眼」とまで称されています。そんあ落合さんがどんな監督生活を送っていたのかをまとめてみました。ぜひご覧ください。

中日監督時代

引退後は解説者として野球に携わりましたが、2003年に中日の監督として就任します。しかし、最初はコーチ経験がなかったため、本人は断るつもりでしたが、妻に押し切られて就任を受諾しました。

監督就任初年度からリーグ優勝を達成

監督就任後は「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げ、全ての選手を横一線で競争させることでチームを刺激して、就任初年度にしてリーグ優勝を達成します。

MEMO


監督としては「勝利こそ最大のファンサービス」であると述べており、徹底的な情報管理と共に勝てる試合は確実に勝ちにいく采配に徹していました。

リーグ制覇から日本一へと

2005年は連覇を狙うため、横浜からタイロン・ウッズ選手を獲得してチームを補強します。しかし、ウッズ選手が交流戦前に乱闘で出場停止処分になってしまい、チームは失速。後半に阪神を追うも、2位に終わってしまいます。

2006年、2007年はチームとしての完成度が高く、落合さんは「この年が最強」とまで言い切りました。その言葉通り、2006年には再びリーグ制覇を達成します。翌年の2007年にはシーズンを2位で終わってしまいますが、前年度に破れた日本ハムを制して、53年ぶりとなる日本一へと輝きました。

MEMO


日本一達成の2007年、山井大介投手が8回まで完全試合を続けていましたが、岩瀬仁紀投手へ継投させました。「興業」よりも「勝利」を優先させる、落合采配の象徴とも言えます。

2008年以降は調子が下降気味になるも…

2008年、2009年は調子を下げてしまいますが、2010年は前半こそ苦戦はしたものの、夏場から攻め立て、クライマックスシリーズ(CS)へと駒を進めました。

CS前に行われた「全選手登録抹消」は当時話題を呼んでいました。日本シリーズではロッテ相手に死闘を繰り広げるも、2勝4敗1分で惜しくも破れてしまいます。

2011年、落合さん自身は野球殿堂競技者表彰に選出されました。しかし、チームとしては打撃陣が低迷してしまい、前半戦は苦戦を強いられてしまいます。

Aクラス入りも危うい状況でしたが、9月22日の首位ヤクルトとの対決を前に、任期満了による落合さんの退任が発表されると、チームが奮起し猛烈な追い上げを見せました。首位とは10ゲーム差もありながらも逆転してしまい、球団史上初の連覇を成し遂げました。

ちなみにチーム打率、チーム総得点は共に12球団最下位でありながらでの優勝は、プロ野球史上初の記録でした。リーグ優勝を決めた試合後には、当初予定されていなかった胴上げが行われました。

同年に行われた日本シリーズでは、圧倒的不利とまで言われた下馬評の中、3勝3敗の逆王手をまで持ち込みましたが、最終戦に破れてしまい、完全制覇とはなりませんでした。そして、落合さんはこの日本シリーズを最後に、11月20に監督退任となりました。

MEMO

在任期間中の成績は中日球団70年以上の歴史で優勝9回のうち4回が落合さんの政権下であり、歴代の中でも最長、そして最高の成績を残しました。

ゼネラルマネージャー時代

2013年のオフ、中日ドラゴンズ初のゼネラルマネージャー(GM)に就任した落合さんは、同時期に選手兼任監督として就任した谷繁元信と、チームの再建を任されることになりました。

落合さんの後任として高木守道監督がチームを率いていましたが、2012年はなんとか2位を確保するも、2013年には4位へと転落してしまいます。また、首脳陣を中日OBで固めてファンサービスの強化を図り、観客動員数を増やそうと試みます。

しかし、逆に観客は離れてしまい、監督時代から落合さんの理解者であった白井文吾オーナーの意向もあり、落合GMが就任したとも言われています。

落合さんがGMとして就任するも、チームはBクラスから抜け出すことはできませんでした。2016年には20年ぶりとなる最下位に沈んでしまい、2017年を持って退任します。現在は野球解説者として活動しており、野球界を様々な角度から紐解いています。

最後に

選手時代は唯一記録を達成するなど、輝かしい成績を残した落合さんは、監督としても大きな功績を残しました。采配に関しては様々な声も挙がってはいますが、しかし歴代の球団としての成績を見れば、落合さんの凄さが改めて理解できると思います。解説者として活躍している落合さんは、今後も独自の観察眼で野球を大いに盛り上げてくれることでしょう。

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