野村克也、生涯一捕手を貫いた日本球界の大黒柱【あなたは私達の向日葵だった】

野村克也、生涯一捕手を貫いた日本球界の大黒柱【あなたは私達の向日葵だった】

2020年2月11日、生涯一捕手を貫いた野村克也さんがこの世を去りました。
「ノムさん」という愛称で多くの人に親しまれ、選手・監督・解説者として、日本の球界の発展に大きく貢献した一人です。自身を月見草と表現した野村さんがどのような野球人生を送ってきたのか、成績や名言などを交えながら紹介したいと思います。

野球界にとって非常に惜しい人が亡くなってしまいましたね……


ノムさんのボヤキ解説は野球界に限らずファンが多かったよね


ご冥福をお祈りいたします


今回は偉大な野球人であった野村克也さんのプロフィールをまとめてみました

野村克也さんのプロフィール


1954年、南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)に契約金0のテスト生として入団しますが、思ったような成績を出せないことからわずか一年目にして戦力外通告を叩きつけられてしまいます。多くの野球ファンは野村さんをレジェンドと称するでしょう。
では、そこからどのようにして這い上がったのでしょうか。

正捕手として活躍するまで

野村さんの代名詞である 「生涯一捕手」 という言葉は有名です。

しかし、初めから正捕手として活躍をしていたわけではありません。キャッチャーに必要な肩の力が弱かったため、一塁手へとコンバートされてしまいます。

野村さんは当時を振り返り 「一塁手では生き残れない」 と、弱点を克服するための練習に取り組んだそうです。

砂を詰めた一升瓶、テニスボール、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え上げました。その結果、捕手として再びキャッチャーマスクを被り、3年目から一軍に抜擢されて以降は正捕手として活躍するようになります。

固定概念にとらわれない野球スタイル

正捕手として活躍するようになり、その後は数々の記録を打ち立てるようになります。

歴代2位の通算657本塁打、戦後初となる三冠王など、不動の正捕手として南海の黄金時代を支えていました。

「ささやき戦術」 「投手のクイックモーション」 の導入など、固定概念にとらわれない野球スタイルは、現在でも語り継がれています。

選手兼任監督…そして野村野球の誕生

70年代には南海のプレイングマネージャーに就任し、ヤクルト・阪神・楽天の延べ4チームの監督を渡り歩きます。

ヤクルトではデータを元にした戦術 「ID野球」 で黄金時代を築き上げ、楽天では球団初のCS出場を果たし、輝かしい功績を残しています。

また、他球団では戦力として外された選手を立ち直らせ、チームの中心人物にまで育成する手腕は 「野村再生工場」 とまで呼ばれていました。

野村克也さんの通算成績・獲得タイトル

野村克也さんが選手として活躍していた27年の間に獲得したタイトル、監督として就任していた際の成績を簡潔にまとめています。

野村克也さんの選手時代

  • MVP:5回
  • 三冠王:1回
  • 首位打者:1回
  • 本塁打王:9回(9回獲得、8年連続獲得はいずれもパ・リーグ記録)
  • ベストナイン:19回(通算19回受賞は史上最多)
  • 連続シーズン2桁本塁打:21年(歴代1位タイ)
  • 通算満塁本塁打:12本(日本人1位タイ)
  • 通算サヨナラ本塁打:11本(パ・リーグ記録)
  • 通算サヨナラ安打:19本(パ・リーグ記録)
  • 通算本塁打:657本(パ・リーグ記録。捕手としては世界記録)
  • オールスターゲーム出場:21回(史上最多)
  • オールスターゲーム通算安打:48本(歴代1位)

野村克也さんの監督時代

  • 通算年数:24年
  • 通算試合:3204
  • 通算勝利:1565
  • 通算敗戦:1563
  • 通算引分:76
  • 通算勝率:.5003
  • リーグ優勝回数:5回
  • 日本一回数:3回

一部のみの抜粋ですが、改めて野村さんの偉大さを実感できます。

選手だけでなく、監督としてもこれほどの功績を残した野村さんは、記録だけでなく記憶としても語り継がれるでしょう。

選手としての野村克也


捕手としては相手選手の観察を怠ること無く、試合に活かすことを徹底していました。配球の予測など、常に考える野球で打者としても大成します。後にID野球と呼ばれ、後世にも多大なる影響を与えました。そんな野村さんがどのような選手、監督だったのかを下記の項目で紹介しているので、ぜひご覧ください。

南海ホークス時代

1954年、南海に契約金0のテスト生として入団。

当時の南海は鶴岡一人監督の指揮の下、毎年優勝争いを繰り広げていました。テスト生の野村さんに出場機会はなく、代打で出場するも、結果を残せずにシーズンを終えます。

シーズンオフには戦力外通告を受ける

テスト生として入団したその年のシーズンオフには、戦力外通告を受けてしまいます。

「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」

当時の野村さんはこのように食い下がり、なんとか残留することに成功します。今ではまず考えられないような破天荒な人生を歩まれています。

MEMO

ちなみにこの時の担当マネージャは、野村さんに「お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」とまで言われたそうです。

最初は一塁手として登録される

しかし、残留後もすぐに正捕手として活躍できたわけではありません。肩の弱さを指摘され、一塁手へとコンバートされます。

当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が活躍していたため、野村さんはこのままではレギュラーになれないと考え、一升瓶に砂を詰めて振ったりするなど、工夫と努力を積み重ね捕手へと再コンバートされます。

ID野球の基礎が誕生

1956年に一軍へ起用されると、以降は正捕手として定着します。しかし、打撃では思うような調子を出せずにいました。

そんな時、とあるファンから1冊の本が送られます。それが元で投手の癖を研究する重要性を知り、打撃不振を克服することに成功します。

ただ、稲尾和久だけは攻略できなかったため、16ミリカメラで撮影するなどの工夫をこらし対策を練りました。このことが後のID野球の基礎となりました。

MEMO

ファンの送ってくれた本というのは、テッド・ウィリアムズが著書の「バッティングの科学」でした。この当時は日本で出版されていないため、このファンは原版を翻訳コピー(ちなみにガリ版)して、野村さんに送ったそうです。

王・長島は向日葵。自分は月見草

8年連続本塁打王を獲得し、1965年には戦後初の三冠王に輝きます。

しかし、世間の注目は王と長嶋の 「ON(オーエヌ)」 の存在に向いていました。当時はパ・リーグではなく、巨人を中心としたセ・リーグに世情が傾いていたためです。野村さんが史上2人目の600号本塁打を達成した時であっても、観客はわずか7,000人ほどでした。

ちなみに600号本塁打を放った際の野村さんは以下のようなコメントを残しています。

「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだって『向日葵』もあれば、人目につかない所でひっそりと咲く『月見草』もある」

これにより 「月見草」 は野村さんの代名詞の一つとして語られるようになります。

選手兼任監督(プレイングマネージャー)として活躍

1969年には選手兼任監督として就任しました。この時、野村さんは捕手・4番打者・監督の一人三役という負担を担っていました。しかし、打撃は衰えず、1970年にはシーズン42本塁打を達成。また、同年に通算2000本安打を記録し、1972年には打点王を獲得しました。

監督就任1年目は2位の成績で終わりましたが、2年目は4位の結果となってしまいます。野村さんはこの時、他球団で燻っていた江本孟紀、山内新一、松原明夫を獲得し、チームの立て直しを図ります。

この結果が功を奏し、1973年にリーグ優勝を果たしました。また、自身の成績も落とさず.309、28本塁打、96打点の活躍でMVPに選出されました。ですが、日本シリーズは巨人に敗れてしまいV9を許してしまいます。

選手としての衰えとクイックモーションの確立

阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)の1番打者として活躍していた福本の盗塁防止策として、投手に素早いモーションでの投球を指示しました。これが現在では一般的となる 「クイック投法(クイックモーション)」 の原点です。これは自身の肩が衰えたことにより考案された策でもありました。

江夏豊の再生、野村再生工場が誕生

1976年、阪神タイガースから獲得した江夏豊を野村さんはリリーフ専任投手として起用を決断します。当初は反対していた江夏でしたが 「野球界に革命を起こそう」 という野村さんの一言に感銘を受け、1977年にはリリーフへと転向しました。そして、同年には19セーブを記録し、最優秀救援投手に選ばれました。

江夏の活躍、そして投手分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在があり、先発・中継ぎ・抑えという、ピッチャーの分業制が定着するきっかけとなりました。また、江夏の起用法を提唱した野村さんに至っては、後に 「野村再生工場」 と呼ばれるようになります。

ロッテ・西武時代

南海退団後、ロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に選手として契約しました。選手としては勿論ですが、若手の見本として指導して欲しいという要望があったからです。当時の若手から見れば、野村さんは野球界のスーパースターとも呼べる存在でした。

その後はロッテの監督を務めてほしいとの要請もありましたが、野村さんは要請を辞退して自由契約となりました。

生涯一書生、生涯一捕手の誕生


野村さんはある日、草柳大蔵さんから 「生涯一書生」 という禅の言葉を教わりました。これを自身に当てはめ 「生涯一捕手」 という言葉が生まれます。後にその言葉は流行語となり、野村さんの代名詞の一つとなります。

西武、そして引退へ

ロッテから1978年に根本陸夫監督が率いる西武へと移籍します。年齢的な衰えもあり、控えに回ることがほとんどでした。しかし、オールスターゲームへ選出され、選手として22回の歴代最多記録を打ち立てます。

さらに1980年には3,000試合出場を果たし、同年7月29日に放った最後の本塁打で計657本の本塁打を放ち、輝かしい功績とともにプロ野球界を引退しました。実働26年間にも及ぶプロ野球生活は、まさしくレジェンドと言えるでしょう。

解説者から監督へ

引退後は解説者として野球に関わりました。ストライクゾーンを9分割した 「ノムラスコープ」 による解説は人気を博し、その洞察力は現役時代と変わらないものでした。打者への配球の読みや、野球への知識の深さから、複数の球団から監督としての要請がありましたが、当の本人は固辞し続けていました。

しかし、1989年に野球殿堂入り後、同年の秋にヤクルトの監督として就任を発表します。最初こそ断っていましたが、監督業への未練や、現場以外の多忙な生活から解放されたいという思いがあり、今回の要請に承諾したようです。

ヤクルト監督

就任当時は、野村さんの性格や健康面の不安もあり、ファンからは快く歓迎はされませんでした。1990年にデータを重視する 「ID野球」 をチーム目標として掲げ、チームの改革を図ります。

チーム選手としては、池山隆寛、広沢克己の打撃指導。新人の古田敦也をレギュラーとして起用し、他レギュラー陣のコンバートを行うなど、試行錯誤した結果、個人としての成績は向上することに成功します。しかし、チームとしての成績は振るわず、同年5位で終わってしまいます。

ヤクルト黄金時代の到来

昨年とは違い、6月にはチーム新記録の12連勝で首位に躍り出ます。一時は失速するも、最終戦では3位となり、11年ぶりのAクラスでこの年を終えました。飯田哲也のブレイク、古田がセ・リーグ初となる捕手での首位打者になるなど、選手も躍動の年となります。

1992年は全チームが60勝台と、球史に残る大混戦でした。ヤクルトは前半戦3位の成績でしたが、ジャック・ハウエルが首位打者・本塁打王の二冠の活躍で、日本シリーズへと進出します。そして、対するは西武ライオンズでした。両チーム譲らない攻防を繰り広げ、第7戦までもつれますが、惜しくも日本一を逃してしまいます。

1993年には、高津臣吾や新人の伊藤智仁の活躍もあり、2年連続のリーグ優勝を果たします。対するは去年に続き西武との対戦。前年と同じく、試合は第7戦まで持ち込まれましたが、激闘の末にヤクルトがついに日本一へと輝きました。

1994年は主力選手が欠けてしまい、攻守ともに落ち込んでしまいます。昨年度の日本一から一気に4位にまで転落してしまい、翌年にも不安を残す結果となってしまいます。

しかし、1995年の翌年には再び日本一へと返り咲きます。また、日本シリーズで対戦したオリックスにはイチローが在籍していました。相手チームでも特にマークしていた野村さんは、メディアを通じて 「内角高めの速球がイチローの弱点である」 とイチロー本人に意識させ、実際には別のコースで揺さぶるという采配でイチローを封じてしまいます。

そして、1996年に再び4位に転落しますが、1997年には再び日本一をつかみ取ります。就任から僅か8年という期間の中で、日本一を3度も達成するということは、選手だけでなく、野村さんの指揮もあってこその結果でしょう。

阪神監督

ヤクルト退団後、1998年に阪神の監督として迎えられます。しかし、ベテラン、外国人、若手選手の足並みが揃わず、選手層の薄さや、野村さんの考えに対して反発するなど、内部でまとまりがない状態だったこともあり、結果を残せずに退団。

シダックス監督から楽天監督へ

阪神監督を辞任後、社会人野球の弱小チームだったシダックスの監督に就任し、僅か数ヶ月で全国制覇へと導きました。その後の2006年には楽天の監督に就任し、序盤は最下位に終わる結果となりましたが、田中将大、山崎武司を中心とした活躍により、2年目には4位へと躍進します。その翌年はチーム戦力の整備は進んだものの、後半戦から失速してしまい5位という結果に終わってしまいます。

この年で任期を満了ではありましたが、戦力整備に対する球団からの評価を受け、翌年も1年契約で続投が決定しました。

選手・監督両方での通算3,000試合出場を達成

2008年の7月15日に監督として通算3,000試合を達成しました。選手としては3,017試合に出場しており、これは日米ともに前例のない偉業でもあります。選手としても監督としても世界的な人物と言えるでしょう。

チーム初のCS進出、そして監督退任

2009年は選手の怪我が相次ぎ、就任以来の災厄とも言われていました。スポーツ紙や解説者も楽天の順位は下位予想され、野村さんは 「下馬評が低いからやりやすい」 とコメントを残しています。しかし、後半戦から徐々に追い上げを見せ、チーム初のCS進出が決まり、楽天球団初のAクラス入りを果たします。ですが、日本ハムに破れてしまい、日本シリーズ進出にはなりませんでした。その後は、楽天の新監督にマーティ・ブラウンの就任が発表され、同時に名誉監督就任が発表されました。

ボヤキが人気となる

楽天監督就任以降、試合後の内容や選手についてのボヤキ発現が話題となり、スポーツ番組では一部、定番コーナーとなっていました。辛口のコメントを残す一方、田中将大が活躍したときなどはデレデレなコメントを残す一面もあり、ツンデレ提督とも呼ばれていました。

野村克也さん、死去

2020年2月11日未明に、東京都世田谷区の自宅の浴槽で意識がないところを家政婦が発見。病院に搬送されたが死亡が確認されました。84歳没。

死因は虚血性心不全であることが発表されています。

野村さんの教え子の今

野村さんがヤクルト監督時に指導していた選手の中で、現在は指導者として活躍する選手がいます。その一部を抜粋したいと思います。

  • ヤクルト:高津臣吾
  • 日本ハム:栗山英樹
  • 楽天:三木肇
  • 西武:辻発彦
  • 中日:与田剛
  • 阪神:矢野燿大
  • 日本代表:稲葉篤紀

自身を月見草、ファンとしては向日葵

野村さんは自身を月見草であると、日頃から仰っていました。

しかし、ファンにとっては野村さんも向日葵だったのではないでしょうか。

球界だけでなく、ファンにも愛された野村さんは、とあるインタビューでこのようなコメントを残しています。


「私にとっての野球とは、野村-野球=0」

野村さんにとっては野球が全てだったことが汲み取れます。野球界には今後、野村さんのような人は現れないかもしれません。しかし、意志を継いだ教え子たちが、野村さんの愛した野球を新生代へと教えていくことでしょう。

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