今回は、2019年でメジャーデビュー25周年を迎えた、日本を代表するビジュアル系ロックバンド「GLAY(グレイ)」についてご紹介していきます。
25周年を迎えた彼らの、意外にも苦労人な彼らがスターダムにのし上がるまで、解散危機の秘話、メンバーのプロフィールなどもお届けします!
日本歴代CDアルバム売上枚数第3位の記録を持つビッグバンドGLAYについて詳しく見ていきましょう。
目次
GLAY/グレイ
- Vo TERU (テル)
- Gt Key TAKURO(タクロー)
- Gt HISASHI(ヒサシ)
- Ba JIRO(ジロー)
GLAYはメンバー全員が北海道函館市出身。
TERU、TAKURO、HISASHIは同い年で、JIROは彼らよりも年齢が1つ下になります。
1988年に函館市でTAKUROとTERUを中心にGLAYを結成しました。
元々オリジナル曲を作詞作曲していたTAKUROが、同じ小・中学校で既に別バンドで活動していたTERUに声を掛けたところからGLAYの歴史が始まります。
最初からHISASHIとJIROがメンバーではなく、HISASHIはGLAYが活動を始めて間もなく、JIROはGLAYが上京後の1992年に加わることとなります。
1990年に高校を卒業したGLAYは、上京することを決めました。
当時GLAYのメンバーは5人いましたが、将来を話し合った結果、TERU、TAKURO、HISASHIの3人が上京を決めます。
今となっては日本を代表するロックバンドですが、当時上京したての彼らの人気は全くありませんでした。
上京後数年たってもライブではお客さんが0人ということもありました。
それでも一歩ずつ努力していき、徐々にファンが増えていくことになりますが、それでもライブでは100人を超えるのがやっとという程度でした。
苦労していたGLAYに転機が訪れます。同郷のJIROの加入です。
ベースが不在であった彼らにとってJIROの加入により、苦労が報われて行くことになります。
JIROの意見により、積極的に宣伝活動を行うようになったことと、彼らの地道な努力により、ファンが定着し始めます。
ここで彼らにとって運命を変える出会いが訪れます。
ライブハウスにX JAPANのリーダーYOSHIKIが訪れたのです。
YOSHIKIは彼らの才能を認め、YOSHIKIが設立したインディーズレーベル「エクスタシーレコード」からインディーズデビューすることとなります。
1994年にアルバム「灰とダイヤモンド」をリリースしインディーズデビューをしますが、YOSHIKIは彼らをさらにメジャーデビューさせることになります。
同じくYOSHIKIが設立した、メジャーレーベル「プラチナム・レコード」から1stシングル「RAIN」をリリース。
XJAPANのYOSHIKIがプロデュースしたという宣伝効果も抜群で、「RAIN」は15万枚のスマッシュヒットを記録します。
そこからシングル曲を続々と発表し、1995年のメジャー1stアルバム「SPEED POP」は初のオリコンチャートトップ10入りを果たします。
数々のシングルでスマッシュヒットを記録し、1996年の2ndアルバム「Beat Out」はオリコンチャート1位、同年の3rdアルバム「Beloved」では152万枚を売り上げ、初のミリオンヒットを達成します。
さらに彼らの記録は続きます!!
彼らの代表曲1997年発表12thシングル「HOWEVER」は、シングル初のミリオンヒットを記録。
「HOWEVER」から「Winter, again」まで5曲連続のシングルミリオンセラーを達成し、これまで6曲がシングルミリオンセラーを記録しています。
今となっては国民的人気バンドですが、北海道から上京してきた彼らは苦労人の一面もあります。
バラードから攻撃的なロックまで様々な楽曲で楽しませてくれるGLAYは、名実共に日本を代表するロックバンドです。
GLAYのバンド名の由来は?
シンプルなバンド名「GLAY」の由来について見ていきましょう。
灰色を意味する「gray」と綴りは違いますが、バンド名の由来はこの「gray」で、「白(ポップス)でも黒(ロック)でもない音楽を作っていきたい」という意味を込められたバンド名になっていると言われています。
TAKUROと TERUが高校一年生の時に決めたバンド名で、響きがかっこいい、「R」より「L」の方がインパクトがあって良かったから、と後のインタビューで答えています。