映画音楽作曲家とシンガーソングライターの2つの肩書を持つ世武裕子。
数多くの映画やドラマのサウンドを手がける一方で、来年2023年にはシンガーソングライターとしても活動15周年を迎えるベテランアーティストです。
今年の夏には銀杏BOYZの『BABY BABY』を弾き語りカバーした楽曲がCMに起用され、大きな話題に。
弾き語りカバーアルバムの発売も発表されており、今注目を集めています。
そこで今回は、世武裕子の音楽活動や映画音楽との出会い、楽曲について詳しく解説していきます。
目次
2つの顔を持つ世武裕子の音楽活動
#新しいアー写 #録音プロジェクト第二弾Day1 pic.twitter.com/5SybjK2zHC
— Hiroko Séb/世武裕子 (@sebuhiroko) October 21, 2022
- 名前:世武裕子(せぶ ひろこ)
- 職業:映画音楽作曲家、シンガーソングライター
- 出身:葛飾生まれ滋賀育ち
世武裕子は、2008年にデビューしたシンガーソングライター。
一方で、『ストロボ・エッジ』や『羊と鋼の森』、劇場版アニメ『君の膵臓をたべたい』など数々の有名映画やドラマ、CMなどのサウンドを手がける映画音楽作曲家でもあります。
曲を作り歌唱するシンガーソングライターと、“歌”を伴わない映画音楽作曲家という、一見対極にあるような音楽活動を両方行っているのが彼女の特徴。
どちらが本業というわけではなく、シンガーソングライターとしても、映画音楽作曲家としても精力的な活動を行っています。
さらには、サカナクションやチャットモンチー、森山直太朗などのレコーディングやライブに鍵盤演奏で参加する演奏家という一面も。
最近では、自身のYouTubeちゃんねる『セちゃんねる』も始動し、ますます活動の幅を広げています。
活動歴だけ見るとカッチリとした音楽家のように感じる方もいるかと思いますが、動画の彼女は非常に気さくで、親しみやすさを感じられます。
人柄を知ってから音楽を聞くと、また違った面白さやアーティストとしてのギャップを感じられるでしょう。
2018年まで、シンガーソングライターの時は「sébuhiroko」、映画音楽作曲家の時は「世武裕子」と名義を分けて活動していましたが、10周年を機に名義を統合。
現在は、すべての活動を「世武裕子」名義で行っています。
世武裕子の音楽との出会い
きっかけは3歳で始めたピアノ
宮崎の街角に、いつでも自由に弾いていいピアノ発見したから、夜中こっそり行って弾いてきた。生ピアノに飢えすぎて、もう泣きそうだった。雨宿りしてた人がひとり、途中から立ち上がってずっと聴いてくれていた。大雨の宮崎、忘れられない日になりました。せび pic.twitter.com/loC6wgaw1q
— Hiroko Séb/世武裕子 (@sebuhiroko) June 22, 2018
世武裕子の経歴を振り返ると、パリのエコールノルマル音楽院映画音楽学科を首席で卒業、フランスの著名な映画音楽作曲家ガブリエル・ヤレドに師事し、帰国後は数々の映画音楽を手がけるなど、きらびやかな音楽歴とアカデミックな一面がうかがえます。
そんな彼女の音楽との出会いは、3歳の頃に習い始めたピアノでした。
そこから、なんと4歳にして作曲を開始。
小学校入学時にはすでに「映画音楽作曲家になりたい」という明確な夢があったといいます。
そうして彼女は、周りの子が遊びに出かける放課後もピアノの練習や作曲に明け暮れ、音楽の世界に没頭していきます。
しかし、「映画音楽作曲家」という夢に熱中するあまり、周りの子との考え方や興味関心の違いに悩んだこともあるといいます。内に孤独を抱えながらもひたすらに努力を重ね続けたからこそ、夢を実現できたのでしょう。
日本の音大には入れない? パリへ行った理由
幼少期からピアノの練習を続け、作曲もしていた世武裕子ですが、音楽教室の先生からは「日本の音大には入れないから諦めろ」と言われてしまいます。
理由は、試験問題の意味が分からなかったから。
これまで感覚で音楽を作ってきた彼女にとって、理論やスコアの書き方などを重視する日本の試験は合わなかったのでしょう。
しかし、“映画音楽作曲家になりたい”という思いが人一倍強かった彼女は、海外の音楽関係者に自分の存在を知ってもらうため、海外の大学へ行くと決心。
フランス語を学び、面接で「曲を聞いてください」とアピールして合格したといいます。
それで合格できる実力もさることながら、夢のために行動できるパワフルさも彼女のすごいところです。
しつこいですが、地上で信じられないくらい気高く美しい楽曲
・ラフマニ[死の島]
・ストラヴィンスキ[春の祭典]
・ヤレド[映画ラマンのメインテーマ]
・バーンスタイン[不安の時代]
・リスト[メフィストワルツ]
・スクリャービン[法悦の詩]
・プロコ[ロミジュリ タイボルトの死]— Hiroko Séb/世武裕子 (@sebuhiroko) February 3, 2017
ちなみに、なぜフランスの大学だったのかというと、映画『ベティ・ブルー』の音楽を作ったガブリエル・ヤレドに惹かれたから。
結果として、彼女はその後ヤレドを師として、映画音楽の道へ進んでいきます。
映画音楽家としてデビュー
パリの音楽院を出ても、無名の新人がフランスで仕事を見つけるのは難しく、実力をつける必要があると感じて帰国。しかし、海外の音大にいた世武裕子に国内のコネクションは少なく、初めは学生が作る自主制作映画に音楽を無料提供していたといいます。
そんなある時、音楽提供をした学生の作品が賞を受賞。
次回作のエンディング曲を制作してほしいとオファーが舞い込みます。
これが、世武裕子の映画音楽作曲家として初めての仕事でした。
さらに、映画を見た東宝のプロデューサーがエンディング曲に目をつけ、「映画関係者に見つけてもらいたい」という願いがようやく実現。
それから彼女は、映画音楽作曲家として日本で飛躍的に活躍の場を広げていきます。