「アニキ」「鉄人」と呼ばれた金本知憲(かねもとともあき)さん。現役時代は熱いプレイで観客をおおいに沸かせ、夢と感動を与えました。ギネス世界記録を保持する、そんな金本さんの経歴や成績について紹介していきます。
左手は添えるだけ……!
スポーツジャンルが違うんだけど……
でも、金本さんが左手を骨折した時は、右手一本でヒットを打っていたよ?
まぁ、言われてみれば……間違ってはいないのか? とりあえず、今回は現役時代に「鉄人」「アニキ」と親しまれていた金本知憲さんについての成績や経歴について紹介していきます
目次
金本知憲のプロフィールを紹介!
ここでは金本知憲さんのポジションや背番号について紹介しています。
出身地:広島県広島市南区
生年月日:1968年4月3日(51歳)
身長:180cm
体重:88kg
投打:右投げ左打ち
背番号:10→6
ポジション:外野手
ストイックさは人一倍
金本知憲さんは選手時代、その精神力の強さが多くの人に評価されています。
広島東洋カープに入団して間もない頃、当時の監督であった山本浩二は「打撃ダメ・守備ダメ・足はそこそこ・ハートは強い」との評価を下していました。
レギュラーとして定着するも、それほど目立つような選手ではなく、金本さん自身もいつクビになってもおかしくないとすら感じていたようです。
しかし、金本さんはそこから自身を追い込み、当時は非力だった肉体面の強化を図ります。
その努力のかいもあって、数年後にはチームに欠かせない選手として大成し、ギネス世界記録を樹立しました。
その名も鉄人!タフネスな肉体を持つ男
金本知憲さんは「鉄人」として知られています。
プロ野球生活を始めたばかりの頃は、現在のように厚い筋肉に覆われてはいませんでした。
しかし、肉体改造に取り組み、打者として頭角を現すと、球界を代表する選手にまで成長します。
メンタル面が元々強かったこともありますが、骨折した手首のまま打席に入り、片腕一本でヒットを打つなど、超人的な肉体であることを見せつけました。
また、それ以外にも左膝の半月板損傷という大怪我を負っても強行出場を続けるなど、並々ならぬタフさでファンを沸かせてきました。
金本知憲の主な経歴を紹介!
ここでは、金本知憲さんの受賞したタイトルや経歴について紹介しています。金本さんはなぜ、鉄人と呼ばれるようになったのかを知りたい方は是非ご覧ください。
打点王:1回
最優秀選手:1回
ベストナイン:7回
日本シリーズ敢闘賞:1回
セ・パ交流戦優秀選手賞:2回
月間MVP:4回
オールスターゲームMVP:2回
【世界記録】
連続試合フルイニング出場:1,492試合
連続イニング出場:13,686イニング
【日本記録】
連続4番先発出場:880試合
連続打席無併殺打:1,002打席
40代での代打本塁打:5本
広島に入団するもクビを覚悟する
1991年にハズレ4位で広島東洋カープに入団した金本知憲さん。
現在でこそ強靭な肉体を持っていますが、入団初期の頃は今とは正反対の細身で、評価もそれほど高い選手ではありませんでした。
打撃は「転がして足を活かせ」と言われるほどの非力さで、守備においても送球の癖が問題視されていました。
また、年下の前田智徳や江藤智らの活躍もあり、金本さん曰く「本気でクビを覚悟していた」とまで述べています。
赤ヘル打線を象徴する選手に成長
入団当初こそ評価は低かった金本知憲さんでしたが、悔しさをバネに肉体改造に取り組みます。
地道なトレーニングが功を奏し、1995年にはベストナインに選出され、チームに欠かせない存在となりました。
また、広島の打線の愛称でもある「赤ヘル打線(1995年の当時は野村謙二郎、正田耕三、音重鎮、江藤智、金本知憲)」の一員として活躍しました。
その後は打順を3番や4番へと移動し、2001年には39年ぶりとなる1002打席連続無併設だの日本記録を樹立しました。
阪神へ移籍、リーグ優勝に貢献
2003年、当時の監督を務めていた星野仙一から直々に声がかかり、阪神タイガースへと移籍しました。
移籍当初こそ低迷していましたが、2番の赤星憲広を活かすために3番に座り、リーグ優勝に貢献します。
ちなみに金本さんは阪神移籍に関して「星野さんに騙されました」とスポーツ番組で笑いながら話していました
まさに鉄人!片手でヒットを放つ
金本知憲さんが鉄人と呼ばれる逸話の一つとして、片手一本でヒットを放つという人間離れしたパワーを見せつけた時期がありました。
金本さんは、2004年に左手首への死球で骨折をしてしまいます。誰もが欠場するであろうと思っていた次の試合になんと出場を果たします。
そしてなんと左手は添えるだけで、右手一本でヒットを放ってしまいます。
この年、金本さんは打率・本塁打・打点の3部門で自己最高記録を達成し、自身初となる打点王にも輝きました。
連続試合フルイニング出場世界記録
どんなにコンディションが悪くても、金本知憲さんは自身のため、チームのため、そしてファンのために試合を欠場することはありませんでした。
そして、地道な努力はいつしか記録となり、気づけば世界記録までも達成してしまいます。
1492試合連続フルイニング出場
1492試合というのは、金本知憲さんが広島に在籍していた1999年7月21から2010年4月17日までに継続した数字です。
この記録は世界記録として認定され、正式にギネス世界記録として登録されました。
10年以上に渡って1イニングも休まずに試合に出続けた記録は「この記録は今後も抜かれることはないだろう」とまで言われています。
それほどにまで凄まじい記録として、世界に知れ渡りました。
ちなみにこの記録が止まった原因は、金本さんが右肩腱板の部分断裂という重傷を負ってしまったからです。
外野手でありながら満足な送球をすることができず、当時の映像では20メートルもまともに投げられないような状態でした。
また、その時ショートを守っていた鳥谷敬が、金本さんの守るレフトの位置まで守備範囲を広げるなど、一部から鳥谷の守備位置はショフト(ショートとレフトを合わせた単語)であるとまで言われました。
金本さんはこれ以上、自己満足でチームに迷惑をかけることはできないと、自ら記録をストップする決断をして、連続フルイニング出場の記録は途切れてしまいます。
連続試合出場記録では3位
上述したように、連続フルイニング出場は途切れてしまいますが、スタメンとして出場しない時は代打で出場を続け、連続試合出場記録を伸ばしていました。
その記録はなんと1766試合であり、当時の記録では衣笠祥雄の2215試合に次ぐ2位という記録を達成しました。
しかし、2017年に鳥谷敬選手が記録を抜いたために、3位へと順位が変更されました。この時は金本さんが阪神の監督を務めており、鳥谷選手はそんな金本さんの目の前で記録を塗り替えました。
鳥谷選手の記録更新には「ボクは外野だけど倍キツイと思う」「外野とショートじゃ価値が違うわね」と、鳥谷選手へ称賛の言葉を送っていました
引退後は解説者から監督へ
惜しまれつつも引退した金本知憲さんは、引退後には解説者として野球に携わりました。
その後、阪神からの監督就任要請を受けて、2015年10月17日に監督として再びユニホームの袖を通しました。
若手の積極起用でチーム再建を図る
超変革というスローガンを掲げ、若手選手を積極的に起用するなど、チームの再建を図ります。
しかし、指導者という経験が少ないこともあってか、金本監督指揮の一年目の成績は4位という結果に終わってしまい、一部では采配に関して疑問視する声も挙がっていました。
金本知憲、辞任へ
2017年も若手を積極起用する方針を変えずに、開幕へと臨みました。
打撃陣にベテランの糸井嘉男や福留孝介を置き、投手陣の立ち位置を変えて中継ぎの強化を試みたことにより、チーム状況は安定となりました。
その結果、最終的には2位という好成績で終え、クライマックスシリーズへと進出します。
しかし、3位の横浜DeNAベイスターズを相手に苦戦し、リーグ優勝を飾ることはできませんでした。
翌年はチーム全体が打撃不振に陥り、投手陣も崩れるなど、17年ぶりの最下位という結果に終わってしまいます。この成績の責任を取る形で金本さんは監督を辞任。
再びユニホームを脱ぐことになってしまいますが、一部のファンからはまた戻ってきて欲しいという温かい声が投げかけられました。
辞任ではなく解任という噂もありましたが、真相は現在も曖昧なものとなっています
最後に…
以上、金本知憲さんの現役生活から、監督時代までの経歴について紹介しました。
現役時代の起用に関しては今でも疑問視されていますが、しかし、実際にそれを成し遂げる本人のメンタルの強さは、やはり一流でしょう。
監督としてはそれほどの成績は残せませんでしたが、金本さんが監督として復帰を願う声が挙がっているのも事実です。
今後、どのような道を進むかはまだ不明ですが、今後も金本さんの活躍には期待したいですね。
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