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1980年代を席巻した孤高の歌姫「中森明菜」
2022年にデビュー40年を迎える中森明菜。1982年にデビューし、日本の音楽界を支えてきました。
1982年は、人気を誇ったアイドルがデビューした年として有名です。「花の82年組」と呼ばれ、中森明菜の他には松本伊代やシブがき隊、堀ちえみ、石川秀美、小泉今日子らがいます。
当時も今も、アイドルと言えばその「未完成さ」を愛でられ、応援される存在でした。しかし中森明菜は、高い歌唱力とアイドルらしからぬ妖艶な歌い方や大胆な歌詞で、世の中を席巻します。
今回は、独自の存在感を放ったアイドル中森明菜の軌跡と、当時を彩った楽曲6曲を紹介します。
中森明菜のプロフィール
名 前:中森明菜
生年月日:1965年7月13日
出 身 地:東京都
1981年オーディション番組「スター誕生!」で研音からスカウトされ、翌年「スローモーション」でデビュー。
NHK紅白歌合戦に8回出場。日本レコード大賞を2年連続で受賞。
デビューを夢見る若者がこぞって応募したオーディション番組「スター誕生!」。中森明菜も例外ではなく、3度にわたって挑戦しています。
最初の2回は落選してしまったものの、1981年7月、3回目の挑戦で山口百恵の「夢先案内人」を熱唱。「スター誕生!」には12年間で200万人もの人が挑んでいますが、中森明菜は番組史上最高記録の392点で合格を果たし、10社を超える会社からオファーを受けました。歌唱力の高さに、多くの人が魅了されたことが分かります。
「スター誕生!」に合格した翌年、1982年にシングル「スローモーション」でデビューを飾ります。その後は、「少女A」や「セカンド・ラブ」といったヒットを連発させました。女優としても活躍し、1985年1月には映画「愛・旅立ち」で近藤真彦と主演を務めます。
1985年3月の「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」と1986年の「DESIRE -情熱-」で、2年連続でレコード大賞を受賞しました。20歳前後にして、歌手としての頂点を極めたといっても過言ではないでしょう。
オリコン年間チャートで1位を4回獲得するなど、様々な「史上初」「歴代1位」を塗り替えていた矢先。1989年、当時交際していた近藤真彦との不和などから心のバランスを崩してしまい、自殺を図ってしまいます。
一命はとりとめたものの、その後1年は活動を休止し、新しい事務所に拠点を移して1990年にシングルをリリースします。その後は、再び女優としてTVドラマ「素顔のままで」で主演を務め、カバーアルバム「歌姫」で好評を博しシリーズ化するなど、目ざましい活躍を見せます。
しかし、2010年に再び、体調不良を理由に活動休止。心配する声が絶えませんでしたが、2014年の紅白歌合戦にニューヨークから生中継という形で出演し、復活を果たしました。その後は、2017年のディナーショー出演を最後に、現在は表舞台での活動を控えているようです。
中森明菜の名曲6曲を徹底解説!
どれも名曲ばかりで選びきれませんが、その中でも当時を彩った珠玉の6曲を徹底解説します。
「スローモーション」アイドル性を残したデビュー曲
初めに紹介するのは、1982年にリリースしたデビュー曲「スローモーション」です。恋に落ちた瞬間の印象的な出会いを、“スローモーション”のようだったと歌い上げます。バラードでありながらも、どこか爽やかさの香る楽曲です。
後にリリースしたシングルに比べ、明らかに歌い方が違います。アイドルらしく鼻にかけたような真っ直ぐ響く声が特徴的です。YouTubeの動画はデビューから9年経過した1991年のLIVE映像であるため実感しづらいですが、デビュー当時の音源を聴くとその違いがよく分かります。
シングルチャートの記録は最高30位。当時は人気のアイドルがひしめき合っており、その中で中森明菜は「歌は上手いけど、ちょっと地味」と評され、世間の認知度もあまり高くはありませんでした。
「少女A」魅惑的な歌声と挑発的な歌詞でギャップを見せた2ndシングル
同じく1982年にリリースした2枚目のシングル「少女A」。バラード調だった前作「スローモーション」と打って変わり、こちらはロック調でかっこいい楽曲となっています。
“上目使いに”から始まる歌い出しを初めて聴いた時、当時の人々はのけぞったことでしょう。難しいメロディを魅惑的に歌い上げる中森明菜の歌声や、“女の子のこと 知らなさすぎるのあなた…”という挑発的な歌詞は、当時のアイドル像とかけ離れたものだったからです。
その強烈な印象が人々の心に刺さり、オリコンシングルチャートでは最高順位5位を記録、FNS歌謡祭では優秀新人賞を獲得します。中森明菜の名を世に知らしめる一曲となりました。
「少女A」で初めてタッグを組んだ作曲者・芹澤廣明と作詞者・売野雅勇。後に藤井フミヤがボーカルをつとめるチェッカーズでヒット曲を連発させ、現在はアメリカでも活躍するゴールデン・コンビになっています。
「少女A」のヒットがコンビ誕生に繋がったのかと思うと、感慨深いですね!
「北ウイング」空港から飛び立つ切なさとほのかな期待
1984年の元日にリリースされたシングル「北ウイング」は、作詞・康珍化、作曲・林哲司というゴールデンコンビにより制作されています。この曲は60万枚を超えるヒットを記録し、第4回日本作曲大賞の優秀作曲家賞、審査委員会最優秀賞を受賞しました。
タイトルの「北ウイング」とは一体何か、気になった方も多いでしょう。これは、新東京国際空港(現在の成田国際空港)第1ターミナルの北部分を指します。彼を追いかけて飛行機に乗る“彼のもとへ 今夜ひとり 旅立つ”、“あなたが住む 霧の街が 雲の下に 待つのね”といった歌詞によく合っています。
AメロとBメロでは囁くような歌い方で、飛行機の離陸前や発着前の不安定さを表しているかのようです。サビはマイナーコードながらも、中森明菜の伸びやかな歌声のせいかどこか輝きを感じます。全てを捨てて遠い地へ向かう不安な中でも、彼との再会に胸をときめかせる乙女心が伝わるようです。
「サザン・ウインド」追う側から選ぶ側へー女性像の変化
1984年にリリースされた8枚目のシングル「サザン・ウインド」では、作詞を来生えつこ、作曲を玉置浩二が手がけています。
前作の「“北”ウイング」に対し、こちらは「“サザン(南)”・ウインド」。前作での彼をひたむきに追いかける女性像から一転、南国リゾートで余暇を楽しみ、誘惑してくる男性たちを品定めするような女性像へと、様変わりしています。
「サザン・ウインド」でもオリコン週間チャート1位を獲得、音楽番組「ザ・トップテン」でも1位に輝きます。前作「北ウイング」からの連続ヒットとあわせ、中森明菜のアーティストとしての地位を不動のものにしました。
「ミ・アモーレ 〔Meu amor é…〕」異国情緒あふれる音楽で初のレコード大賞を受賞
1985年にリリースされた11枚目のシングル「ミ・アモーレ 〔Meu amor é…〕」は、作詞を「北ウイング」の康珍化、作曲を松岡直也が手がけています。
歌詞に“リオの街はカーニバル”とある通り、舞台はブラジル。サンバを思わせるマラカスや笛の音色、細かく刻まれたラテンチックなリズム、思わず踊り出してしまいそうな情熱的な音楽が印象的です。
タイトルの「Meu amor é…」は、ポルトガル語で“Meu”は「わたしの」、“amor”は「愛」や「恋人」、“é”は英語の“is”に似ており「~は」という助詞を指します。「わたしの愛(恋人)は…」の続きが思わず気になってしまいますね!
この曲は「セカンド・ラブ」に続く中森明菜のヒット作となり、日本レコード大賞で大賞を受賞します。
「DESIRE -情熱-」カラオケで多くの世代に親しまれる名曲
1986年にリリースされた14枚目のシングル「DESIRE -情熱-」。前述した「ミ・アモーレ 〔Meu amor é…〕」と同じく、ほとばしる情熱を歌い上げています。
“Get up”から始まる歯切れの良いリズム、サビに向けて高まるテンション、サビで吐息交じりに歌われる“DESIRE”のセクシーさ…。あらゆる曲の魅力が相まって、現在もカラオケで多くの世代に親しまれる1曲となっています。
この曲は前回の「ミ・アモーレ 〔Meu amor é…〕」に引き続き、1986年の日本レコード大賞で大賞を受賞します。当時、ソロの女性アーティストで2年連続大賞を勝ち得たのは、中森明菜が初めてでした。アイドル戦国時代と呼ばれた1980年代の中でも、中森明菜が強烈な存在感を放っていたことがよく分かります。
中森明菜・まとめ
今なお人々の心に息づく中森明菜。デビューから40周年を迎える2022年に向け、SNSでは復活を望む声が絶えません。
彼女の心身の健康が第一ですが、願わくはエネルギッシュなパフォーマンスを、この目で観られる日が待ち遠しいですね。