金子千尋、長野のイチローと呼ばれた技巧派投手の経歴を紹介

金子千尋、長野のイチローと呼ばれた技巧派投手の経歴を紹介


新潟県出身のプロ野球選手、金子千尋(かねこちひろ)選手は、投手として現在も活躍しており、ファンからは「ネコ」「ちーちゃん」と愛されています。多彩な変化球で打者を惑わし、投手としての実力で言えば球界のトップと言っても過言ではありません。そんな金子選手の経歴を振り返りながら紹介していきたいと思います。

技巧派ピッチャーとして有名な選手だね

七色の変化球だよね。
眩しくてゴーグルしなくちゃ打てないね

いや、そういう七色じゃないんだけど……。
多種多様の変化球を投げるって意味だよ

え、そうなの!?

そうだよ……。
それじゃ、今回はそんなキミのためにも
金子選手について教えてあげようか

金子千尋選手のプロフィール

金子選手の基本情報

  • 出身地:新潟県三条市
  • 生年月日:1983年11月8日(36歳)
  • 身長:180cm
  • 体重:77kg
  • 投打:右投げ左打ち
  • 背番号:19
  • ポジション:投手

トヨタ自動車から、2004年のドラフト自由枠でオリックス・バファローズに入団しました。大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併によって誕生したオリックス・バファローズの第一期生となります。

しかし、ドラフト当時、金子選手は右肘を故障していました。それにもかかわらず球団首脳部から高い評価を受けており、期待値の高い選手として迎え入れられます。

投手として四球が少なく、高い防御力が特徴的です。また、ノビのある速球に加えて多彩な変化球で打者を翻弄し、安定した投球が魅力的です。

また、投手には珍しい右投げ左打ちであり、打撃を得意としています。高校時代は「長野のイチロー」と呼ばれ、セ・パ交流戦では8番を打ったこともあります。

金子千尋選手の主な経歴やタイトル

金子選手が現在獲得しているタイトルは以下の通りです。

  • 最多勝利:2回(2010年、2014年)
  • 最優秀防御率:1回(2014年)
  • 最多奪三振:1回(2013年)

開幕投手として任されることが多い金子選手ですが、春先は調子が上がらず、離脱する面が多々あります。しかし、それでも安定した投球と防御率でチームへ大きく貢献しています。また、北海道日本ハムファイターズに移籍後に史上18人目となる全球団勝利を達成しました。

プロ入り前

小学校4年制の時、新潟県長野市にある石渡育成会少年野球倶楽部で投手としてのキャリを始めました。長野商業高校へ進学すると、2年生の春に第72回選抜高等学校野球大会へ出場を決めます。しかし、2回戦で鳥羽高校に破れてしまいます。

その後の大会では、夏の選手権長野大会で2年生時に準優勝。3年生時には2回戦でノーヒットノーランを記録します。着々と力をつけていき、準決勝では12奪三振を記録しますが、塚原青雲高校に破れてしいます。

高校から卒業後は社会人野球のトヨタ自動車へと入社を決め、主にクローザーとして頭角を現しました。そして2004年のドラフト会議において、自由枠獲得を通じてオリックス・バファローズの一期生として入団を果たします。

高校時代の呼び名は「長野のイチロー」

金子選手は投手としては珍しい、右投げ左打ちの選手です。本人も打撃を得意としており、高校時代には「長野のイチロー」もしくは名前をもじった「チヒロー」と呼ばれていました。

オリックス時代、セ・パ交流戦において8番打者を務めていたこともあり、その呼び名からイチロー選手の応援歌を使われたことがあります。

打者としての記録は、2009年の横浜ベイスターズ戦の交流戦で初安打を記録し、2014年の広島東洋カープ戦の交流戦にて初打点を記録しています。

こちらは実際に初打点を記録した際の試合模様です。

トヨタ自動車にて活躍

高校卒業時にはプロからの声はかからず、トヨタ自動車にスカウトされ入社を決めました。当時の金子選手は「自分よりすごいピッチャーばかりで自身を喪失した」と語っています。

しかし、社会人野球においてコンスタントに140キロ台の球を投げられることで、徐々にスカウトから評価を得るようになります。

オリックス・バファローズ時代

2004年のNPBドラフト会議において、自由獲得枠(現在は廃止)を通じてオリックス・バファローズの一期生として入団します。この年は、球界再編騒動やドラフトにおける金銭授受問題の発覚で荒れた年となっていました。

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ちなみにこの年は、ダルビッシュ有選手など、実力派の好投手がプロ入りするなど、豊作の年でもありました。

好成績を残すも辛口評価

2005年に正式に入団した金子選手ですが、入団前から故障していた肘の影響で一軍としての活躍はありませんでした。そのためリハビリに専念し、二軍(サーパス神戸)のウエスタン・リーグ公式戦へ登板。12試合を投げ、勝敗こそ付きませんでしたが、防御率0.69という好成績を残しています。

しかし、周囲の反応としては辛口が多く「ハズレを掴まされた」とまで言われてしまいます。

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この評価に関しては、肘の調子があまり良くなく、一軍登板を果たせなかったことが主な原因と言われています。

紅白戦でイチロー選手と対戦

故障で一軍登板を果たせなかった金子選手は、結果を求められていました。そんな時、2年目のキャンプで憧れだったイチロー選手(当時マリナーズ所属)と紅白戦で対決する機会に恵まれました。

背水の陣であった金子選手は、イチロー選手を打ち取るため、もっとも自身があった変化球で勝負を挑みます。この采配が功を奏したのか、イチロー選手をファーストゴロに抑えますが、周囲からは直球で勝負するべきという意見が挙がっていました。

また、当時オリックスに在籍していた清原和博選手からも「ストレートをほうらんか!」と怒られたそうです。

イチローとの対決で自分のピッチングに自信を持つように

そんな声とは対象的に、イチロー選手は金子選手の投じた球に対して「ナイスボール」と本人に直接声をかけています。

この言葉に、自分の最も自信のある球を投げることが「真っ向勝負」であることを理解し、自信の持てなかったピッチングに勇気を持つことができたと金子選手は語ります。

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イチロー選手とのやり取りに関しては、金子選手の自著「どんな球を投げたら打たれないか」にも記されています。

中継ぎを中心に一軍登板

2006年には中継ぎを中心に、一軍での登板を重ねていきます。また、この年で一軍初先発を達成し、救援では9試合連続無失点を記録しました。

続く2007年では最初こそ不安定でしたが、故障の原因で投球を控えていたカットボールを駆使するようになってからは調子を上げていきます。

先発での初勝利を挙げ、8月26日に行われた東北楽天ゴールデンイーグルス戦では一軍初完封を記録しました。

そして後半戦においては先発で6連勝を挙げ、最下位に沈んでいたオリックスを支える重要な役割を担います。

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私生活においては、この年に高校時代の同級生と結婚をされたそうです。

開幕投手を務める

徐々に頭角を現した金子選手は、2008年には開幕投手として指名されます。一時期は不調に陥りますが、交流戦後に行われたリーグ戦で調子を取り戻します。

7月にはパシフィック・リーグの投手部門での月間MVPに輝き、チームの9年ぶりのAクラス入り・クライマックスシリーズ初進出に大きく貢献しました。

ただ、被安打数・被本塁打数が個人成績で2位という結果になり、課題の多い年でもありました。

オールスターゲームに選出

2009年は開幕投手を逃したものの、先発陣の一角を担いました。チーム勝利数が少なかった6月には、4勝中3勝を一人で稼ぎ、チームを支えていました。

また、同年に行われたオールスターゲームに監督推薦選手として、初出場を果たします。この出場での活躍により、ベストピッチャー賞を受賞しました。

後半戦では、不調になった加藤大輔選手の代わりにクローザーに転向します。チームの連敗を止める活躍で、前年度から非安打数と被本塁打数を大きく減らしました。

最多勝を受賞

2010年は開幕投手を務め、東北楽天ゴールデンイーグルスのエース・岩隈久志選手を相手に完封勝利を挙げます。その後のセ・パ交流戦までは大量失点による炎上が相次ぎましたが、球団では米田哲也選手以来の3試合連続完封を達成してからは本来の調子を取り戻し、7月と8月に連続月間MVPを受賞します。

最終的に13連勝を挙げ、17勝8敗の活躍により、自身初となるタイトル「最多勝」を獲得しました。

2010年以降には沢村賞受賞も故障に苦しむ

2010年以降、開幕前に故障が相次ぎ、離脱を余儀なくされました。

2011年は右肘の違和感から手術を受けて出遅れ、6月まで一軍に復帰することはできませんでした。しかし、復帰後は白星を重ね、9月には4試合で自責点1の防御率0.35という好成績を残します。

出遅れがあったにも関わらず、規定投球回数に達して10勝4敗の防御率2.43の成績で、チームのエースとしての貫禄を見せつけました。

ですが、クライマックスシリーズ(CS)の進出をかけたシーズンの最終戦で敗戦投手となってしまい、CS進出を目前で逃してしまいます。

故障に苦しみ、長期離脱を余儀なくされる

翌年の2012年も再び故障により開幕戦を離脱し、5月に前倒し気味に復帰したことで症状が悪化。長期離脱を余儀なくされ、シーズン終了後に復帰するも、9試合で4勝3敗という微妙な成績となってしまいます。また、チームも前年の勢いがなくなり、最下位へと沈んでしまいました。

2013年も春キャンプで離脱してしまい、オープン戦には登板しませんでした。しかし、オープン戦に登板はしなかったものの開幕投手を務め、8回1失点の好投を見せます。

その後はエースとして投げ続け、29試合登板で15勝8敗、防御率2.01、200奪三振という好成績を残しました。それに反して、チームの得点援護率がリーグワーストの3.18に終わってしまいます。

また、沢村賞の選考基準を満たしてはいましたが、この年には田中将大選手が24勝0敗(NPB公式戦史上初)という異次元の成績を残したため、沢村賞を受賞することができませんでした。

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基準項目を満たしながら沢村賞を逃したのは江川卓、ダルビッシュ有に続いて史上3人目でした。ちなみに田中将大はこの記録と共にメジャーへと渡ります。

2014年はオープン戦の時期にインフルエンザ―で一時離脱しましたが、開幕には復帰して開幕投手を務めました。この年は打線の援護に恵まれており、26試合に登板して16勝5敗、防御率1.98という成績で、両リーグ唯一の1点台という記録を残します。

また、奪三振も199と高水準を記録し「最多勝」「最優秀防御率」の2冠を達成しました。そして、昨年に逃した沢村賞とベストナイン、パ・リーグMVPを受賞しました。

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ちなみにオリックスの選手がMVPに選ばれたのは、1996年のイチロー選手以来の快挙です。

日米野球2014の日本代表に選出

シーズン終了後に開催された日米野球2014で、日本代表の一員として参加します。第2戦に登板した金子選手は、試合を5回3失点にまとめ、勝利投手となりました。直球の制球に苦しみましたが、得意の変化球で空振りを取るなど、自身としても実りのあるものだったと語っています。

メジャーへ挑戦する意向があるも…

日米野球を通じ、MLBへ挑戦する意向があることが報道されました。国内FA権の取得要件を満たしていることから、その後の去就が注目されます。しかし、右肘骨棘の除去手術を受けたことから移籍を断念し、オリックスとの4年契約で残留することを表明しました。

手術の影響で開幕二軍スタート

翌年の2015年は、前年度に右肘の手術をしていた影響で、開幕を二軍で迎えることになります。5月23日の千葉ロッテマリーンズ戦に初登板するも、調整不足の影響もあり3回6失点の大乱調で降板してしまいます。

その後の6月6日に初勝利を挙げますが、9月には右肩を故障。10月3日のシーズン最終戦に自身5年ぶりの救援登板を果たすも、規定投球回数に達すること無くシーズンを終えました。

2016年は開幕投手として先発しますが、制球難もあったことから勝敗はつきませんでした。

4月30日の楽天戦で初勝利及び、自身20回目の完封勝利を挙げると調子を取り戻していき、5月20日のロッテ戦では通算100勝の快挙を達成します(NPB通算133人目)。また、球団史上最少タイ記録の敗戦数(56敗)で到達しました。

その記録の一方、制球難に苦しみました。また、右肩を故障してしまい、一時戦線を離脱してしまいます。2年ぶりに規定投球回数に到達するも、与四球はワーストの59という結果に終わりました。

通算21回目の完封勝利を挙げ、現役投手最多タイを記録

2017年は開幕投手として5連勝という好スタートを切ります。4月14日のソフトバンク戦では通算21回目の完封勝利を挙げ、現役投手最多タイとなりました。5月6月には不調に苦しみますが、シーズン終了後は3年ぶりの2桁勝利を達成します。

実際のハイライトがこちらです。打たせて取るを体現したかのようなピッチングです。

ロッテ最終年はいまいちな結果に終わる

契約最終年となる2018年には開幕投手とから外され、4月3日のロッテ戦が初登板となります。しかし、開幕から4連敗と不調に陥り、首から背中にかけて強い張りから8月中旬からの登板はありませんでした。シーズン17試合の登板で、4勝7敗、防御率3.87という結果に終わってしまいます。

自由契約から北海道日本ハムファイターズへと入団

その後、オフに球団側から減額制限を大幅に超える減俸を提示され、金子選手は自由契約選手として扱う旨を球団に申し入れました。

球団側も金子選手の申し入れを受諾し、12月2日付けでNPBから自由契約選手として発表。その3日後に、北海道日本ハムファイターズが金子選手との入団交渉へと踏み切りました。

北海道日本ハムファイターズ時代

2018年12月4日、北海道日本ハムファイターズが、金子選手と1年契約を結びました。背番号はオリックス時代と変わらず、19番を背負います。


実際の会見の様子は上の動画にて確認することができます。

登録名の変更

オリックスから日本ハムファイターズに移籍するにあたり、金子選手はこれまでの登録名を「金子千尋」から「金子弌大」に変更しています(読みは本名と同じ)。これには金子選手の新天地で挑戦する意気込みの表れでもあり「新しいチームで一から始める姿をファンに見せていきたい」という経緯がありました。

全球団勝利を達成

移籍後、栗山英樹監督の方針で、オープナー(ショート・スターター)として先発した投手を試合の前半から救援する「第2先発」として起用されます。また、オリックス時代に受け持った本来の先発としての役割も担いました。4月18日のオリックス戦では、移籍後初勝利を挙げ、これによりNPB史上18人目となる全球団勝利を達成します。

シーズン終了後には先発として19試合、救援で7試合に登板しており、通算8勝7敗の成績を残しました。白星を先発だけで挙げ、救援登板では2ホールドを記録します。

その後、海外FA権を行使せず、1年契約で日本ハムに残留することを表明しました。

最新情報

最後に

オリックスから新天地の日本ハムに移籍した金子選手は、気持ちを一転し、打者を巧みに惑わすピッチングで今後もチームの勝利のために貢献してくれるでしょう。

また、金子選手もベテランの粋となり、若手選手にとっても刺激となるはずです。

今後の金子選手の活躍を期待しましょう!

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