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スピッツの経歴(歴史)
結成から30年以上もバンド活動を続けているロックバンドスピッツですが、成当初からずっと順風満帆な音楽人生を歩んで来たわけではありません。
では、スピッツの結成から現在までの歴史を振り返ってみましょう。
バンド結成・デビューまでのスピッツの経歴
スピッツの前身となるのはチーターズというバンドです。
1986年、草野マサムネさんと田村明浩さんが、彼らの母校である東京造形大学の重音部で出会ったところから始まっています。
二人は、大学の軽音楽部に入部し、後にフライングキッズのメンバーとなる先輩たちの演奏に刺激を受け、自分たちもバンドを組んでいきたいと、ドラムスを加えてスピッツの前身であるチーターズを結成。
当時は、バンド名と同じチーターと言うニックネームで呼ばれていた歌手・水前寺清子さんの“365歩のマーチ”をパンクアレンジしてみたり、草野マサムネさんのオリジナルソングを演奏したりといった活動が中心でした。
その後、バンド名をザ・スピッツと改名。
しかし1987年、パンクバンドTHE BLUE HEARTSのデビューを目の当たりにした、草野さん。
自分の力の限界を感じ、武蔵野美術大学に転入するのと同時にバンドから離れ、ザ・スピッツは自然消滅します。
しかし、音楽への情熱を捨てきれなかったのか、草野さんは、その年の夏に、田村さんに話を持ちかけるのです。
バンド再結成の話を持ちかけられた田村さんは、自身の幼なじみでもあるギタリストの三輪テツヤさんと、三輪さんと同じ学校(文化服飾学院)に通っていた崎山龍男さん(ドラムス)をバンドに誘います。
そして、バンド名をスピッツと改め、バンドを再始動させました。
新たな船出となったスピッツは、メジャーデビューやライブハウス『新宿ロフト』のステージに立つことを目標に地道なライブ活動や新曲作成に勤しみます。
ちなみに、新宿ロフトは、奇しくも、草野さんに一度挫折を経験させることとなった、あの『THE BLUE HEARTS』がステージに立ったライブハウスでした。
少なくとも、草野さんにとって『THE BLUE HEARTS』は、一つの大きな目標だったといえるでしょうね。
念願の新宿ロフトのステージへ・・・
1989年7月、スピッツは300人の観衆を前に念願だった新宿ロフトでのステージに立ちます。
当時はまだ無名でしたし、彼らの音楽を聴きにライブ会場に来てくれたファンが300人もいたことは、彼らにとってすごく嬉しかったはず・・・
さらに、1990年、インディーズながら初のミニアルバム『ヒバリのこころ』をリリースすると、スピッツへの評価が音楽誌を通じて高まり、
- 音楽事務所『ロード&スカイ』(歌手・浜田省吾さんの独立と共に立ち上げた音楽事務所)
- レコード会社『ポリドール』
と契約する運びとなり、1991年3月にメジャー1stシングル『ヒバリのこころ』とスピッツの1stアルバムのリリースが決定。
再結成から2年の月日はかかりましたが、これまでの努力が報われ、スピッツとしてのメジャーデビューへと話が進んでいったわけです。
メジャーデビュー後の挫折、音楽性の違い
メジャーデビュー後、独自の音楽性を保ちながらもまだどこかしらパンクな一面を捨てきれず、ビートパンク的な方向性でで音楽活動を続けていたスピッツ。
それは、彼らの5thシングル『日なたの窓に憧れて』を聴いても、分かります。
少し尖った部分もあり、今のスピッツの音楽とは多少テイストが異なっていると改めて気付かされますね。
音楽性の変換
メジャーデビュー後のスピッツですが、ロックの人気が後退局面にあったこともあり、なかなかCDの売り上げが伸びない事態に直面してしまいます。
メインソングライターである草野さんはその結果に責任を感じ、パンク路線を捨てて誰にでも慕われるような音楽へと方向転換することを決意!
スピッツ6thシングル『裸のままで』以降、より聴き手に受け入れられるようなポップスへと音楽性を変換させていくのです。
ドラマ『白線流し』と共に爆発的ブレイクしたスピッツ!
時に、暖かい表情を浮かべる曲調や、時に共感したくなるポップス調など、多くの聴き手に親しみやすい音楽を手がけるようになったスピッツ。
そんな彼らの音楽性の変換が、ドラマ『白線流し』のヒットと共にブレイクしていきました。
何よりも、主題歌に『空も飛べるはず』が起用され、さらに挿入歌には『ロビンソン』が起用されるという大抜擢!
ちなみに、ロビンソンは後のテレビCM『午後の紅茶』にもCMソングとして起用されています。
この2曲を筆頭に、スピッツの知名度は一気に跳ね上がり、
- 涙がキラリ☆:TBS『世界ウルルン滞在記』のエンディングテーマ曲
- スカーレット:TBS系ドラマ『メロディ』主題歌
など、様々なタイアップソングに起用され、今もなお人気を博しているわけです。