今回は、日本史上最高の3ピースロックバンドとも言われているBLANKEY JET CITYです。
1990年にデビューして2000年に解散しましたが、以来常に再結成が望まれるほど今でも高い人気を誇っています。
ベンジーこと浅井健一さん、照井利幸さん、中村達也さんの3人のスリリングな鬼気迫る演奏から、BLANKEY JET CITYを知る人は口を揃えて、他に類をみない特別なロックバンドと絶賛しています。
少年のようにも聴こえる浅井健一さんの声や、美意識の高い繊細な描写の歌詞、複雑なフレーズのギター、卓越した技術の骨太なリズム隊は、圧倒的な存在感を放ち続けていました。
それでは、ロックファンなら誰もが知っているメンバー3人の紹介からスタートします。
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目次
BLANKEY JET CITY・メンバー紹介
浅井健一 / ヴォーカル、ギター
- 生年月日 1964年12月29日
- 出身地 愛知県名古屋市
浅井健一さんは、BLANKEY JET CITYのほぼ全ての作詞と作曲を担当しています。
曲の制作は、まずメロディが先で、無意識に出てくる言葉(宇宙語)で歌い、その後で普段使っている言葉に変換していくそうです。
ベンジーの愛称は、映画「グローイング・アップ」の主役に似ていたことから名付けられました。
愛称を考えたのは照井利幸さんだよ
現在はギタリストや音楽プロデューサーとして活動し、レーベルSEXY STONES RECORDSの代表取締役も務めています。
SHERBETS、UAさんとのAJICO、JUDEなどのバンドを経て、最近は浅井健一& THE INTERCHANGE KILLSで、よりアーティスティックな感性を広げて活動しています。
高い美意識の物語性のある歌詞や、ポップで繊細な絵画も注目を集めており、詩集や作品集の出版や個展も開催しています。
友人の藤井フミヤさん、栗山千明さん、シーナ&ザ・ロケッツなどとの共演や、楽曲提供もしています。
なかでも椎名林檎さんは熱烈なファンを公言しており、「丸ノ内サディスティック」の歌詞『そしたらベンジー あたしをグレッチで殴って』の歌詞はあまりにも有名です。
高校生の頃にバイク事故を起こし、入院時に詩や絵の制作を始めました。
奈良美智さんと絵本「ベイビーレボリューション」も発行しています。
照井利幸 / ベース
- 生年月日 1964年2月28日
- 出身地 愛知県
愛称は照ちゃん、テリー。
浅井健一さんとは、BLANKEY JET CITY以前のサイコビリーバンドスキャッツからバンドを組んでいました
BLANKEY JET CITYと同時に、ソロプロジェクトJOE BROWNNやJim Spiderとしても活動。
BLANKEY JET CITY解散後は、CARNE、チバユウスケさんとのROSSO、RAVEN、PONTIACSに在籍し、現在はインストゥルメンタル・バンドSignalsを率いています。
ROVOの勝井祐二さん、中村達也さん、映画監督の豊田利晃さんとのバンドTWIN TAILでは、豊田利晃監督の映画「蘇りの血」のサウンドトラックも担当しています。
2019年にはソロで、豊田利晃さんの映画「泣き虫しょったんの奇跡」のサウンドトラックを手掛けているよ
レーベルWELD MUSICを設立し、アーティスト集団WELDを立ち上げ、音楽とあらゆるジャンルの表現を融合したエンターテイメント制作プロジェクトTHE INSIDE OUTも結成するなど、その活動はいわゆるアーティストの枠には留まりません。
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中村達也 / ドラム
- 生年月日 1965年1月4日
- 出身地 富山県富山市
多くの猛者バンドに在籍してきた日本有数のドラマーです。
先輩が学校の体育館で演奏していたのを見て、バンドに興味を持ちました。
ドラムを始めた理由は、バンドをやろうとメンバーで集まったときに、「お前ドラムな。」と言われたからだそうです
BLANKEY JET CITYの他にも、自身のバンドLOSALIOSや、The Golden Wet Fingersでも活動。
斉藤和義さんとMANNISH BOYSを結成して、作品リリースやツアーも行っています。
10代の頃からキレ者ドラマーとして知る人ぞ知る存在で、The SHOCKERS、OXYDOLL、the 原爆オナニーズ、ザ・スターリン、THE GODなどに在籍していました。
GLAY、Puffy、布袋寅泰さん、関ジャニ∞などの作品にも参加していますね
独特な存在感から俳優としても、映画「るろうに剣心 京都大火編」「野火」「HiGH&LOW」、NHK大河ドラマ「龍馬伝」や「私立探偵 濱マイク」など数々の作品に出演しています。
究極の3ピースロックバンドBLANKEY JET CITYとは?
BLANKEY JET CITYの由来は、「黒人解放運動家のブランキーという男が、孤独を紛らわす為なのか旅に出た。そして、不良が集まる架空の都市JET CITYに辿り着く。この街を気に入った彼は、後に市長となった。」という架空の物語が元となっています。
浅井健一さんは、高校の時にロメオズというパンクバンドを組んでいましたが、照井利幸さんと出会いサイコビリーのバンドがやりたいとスキャッツを結成。
その後上京し、中村達也さんを誘ってTHE BLANKEY JET CITYが誕生しました。
4thアルバム「幸せの鐘が鳴り響き、僕はただ悲しいふりをする」の頃までは、THEが付いていました
当初はレコード会社にデモを送りながら、1990年の春に高円寺のライブハウスでの初ステージ以降、主に都内のライブハウスで活動を始めます。
その頃話題となっていたオーディション番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(イカ天)への出演で一躍注目を集めました。
他にも、BEGIN、FLYING KIDS、JITTERIN’JINN、たま、人間椅子などを輩出した伝説の番組です。
出演1週目に「CAT WAS DEAD」で25代目イカ天キングになると、5週連続で勝ち抜いて第6代グランドイカ天キングを獲得。
浅井健一さんは、今ではデビューのきっかけを作ってくれたイカ天に感謝しているそうですが、当時は「いい加減な感じでやっているバンドが多かったから好きじゃなかった」と語っています。
音楽好きを中心にムーブメントにもなっていた大人気番組イカ天の反響は大きく、すぐにメジャーレーベルと契約し、デビュー前にヨウジヤマモトのパリコレにモデルとして出演、ソニー・ウォークマンのCMにも出演しました。
そして1991年4月に、待望の1stアルバム「Red Guitar And The Truth」と1stシングル「不良少年のうた」をリリース。
「Red Guitar And The Truth」はオリコンチャート8位を記録しています。
すぐに全国ツアーもスタートしました。
デビュー作品から、Sex PistolsやThe Clashのプロデュースを務めたJEREMY GREENを迎えて、ロンドンでレコーディングが行われました
メンバーはこの作品の出来にはあまり満足していなかったそうです。初めてのレコーディングということや、JEREMY GREENと英語でのコミュニケーションが上手くいかなかったことが原因だそうです
1992年1月には2ndアルバム「Bang!」をリリース。
盟友の土屋昌巳さんがプロデューサーになったこのアルバムは、BLANKEY JET CITYの代表作にもあげられる名盤です。
デジタルではなくあえて全曲アナログで録音されており、「RAIN DOG」「SOON CRAZY」「ディズニーランドへ」などライブの定番曲が多く収録されています。
セールスも好調で、オリコンチャート7位を記録しました
11月にリリースしたシングル「悪いひとたち」はファン人気も高い代表曲の1つですが、リリース時にある問題が発生します。
歌詞に「麻薬」という言葉が使われていることで、所属レーベルの東芝EMIからはリリースすることができなかった為に、BLANKEY JET CITYが所属する事務所東京ピストルからインディーズでのリリースすることになったのです。
歌詞を変えることなく曲そのままを聴いてもらいたいという、BLANKEY JET CITYの音楽への真摯な姿勢がわかるエピソードだね
1993年2月に東芝EMIからリリースされた3rdアルバム「C.B.Jim」では、「麻薬」の個所はカットされています。1995年3月リリースのベストアルバム「The Six」に収録されている「悪いひとたち」は、「麻薬」はそのまま使われ、ストリングスも導入されました。
この頃に初のロンドンツアーを敢行しますが、邦ロック史の中でも特に個性の強い3人が奇跡的に集まっていたバンド解散の話も出るようになります。
ロンドンツアーは現地でも好評だったそうです
デビューからずっと真剣に音楽に向き合い続けてきたんだからヘトヘトになるよ
そして、浅井健一さんがSHERBET、照井利幸さんはJoe Brown、中村達也さんはLOVE SHOP LOSALIOSとして、メンバーそれぞれの活動に力を入れるようになります。
1998年6月の7thアルバム「ロメオの心臓」は、Radiohead「OK Computer」の影響もあって、大胆に打ち込みを導入したアルバムです。
BLANKEY JET CITY史上最高のセールス30万枚以上を記録しています
この頃にはメジャーバンドの仲間入りをしており、
- 「左ききのBaby」がテレビ朝日「ナイナイナ」のオープニングテーマ
- 「赤いタンバリン」がテレビ朝日「サンデージャングル」のオープニングテーマ
- 「小さな恋のメロディ」がフジテレビ「家族そろってボキャブラ天国」エンディングテーマ
- 「ダンデライオン」が日本テレビのドラマ「お熱いのがお好き?」テーマソング
などテレビのタイアップが多数あります。
ですが、打ち込みの曲が多くなったことで、ギリギリで保っていた3人のバランスが崩れ始めていきす。
そして再びメンバーそれぞれの活動が活発となり、2000年5月10日リリースの8thアルバム「Harlem Jets」をもってBLANKEY JET CITYの解散が発表されました。
「Harlem Jets」発売前の朝日新聞広告上に、「最高のアルバムができたので解散します」と書かれた、あまりに突然の解散発表でした。
宣言通りに、オリコンチャートでバンド史上最高の2位を記録しました
7月にラストシングル「Saturday Night」をリリースし、横浜アリーナでラストライブを敢行。
フジロックのグリーンステージヘッドライナーとしての出演が、最後のライブとなりました。
2013年1月には、2000年5月からのラストツアーの模様を撮影したドキュメンタリー映画「VANISHING POINT」が公開されています。
BLANKEY JET CITYの絶大な影響力
BLANKEY JET CITYと同じ時期に活動していたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとは、プライベートでも交流があるほど仲の良い間柄です。チェッカーズ解散後の1993年から、ソロとして活動を始めた藤井フミヤさんとも交流があり、浅井健一さんは藤井フミヤさんの楽曲「マリア」の作曲をしています。
藤井フミヤさんによると、BLANKEY JET CITYの3人は酔って大騒ぎすることはないそうですよ
BLANKEY JET CITY以降、ほぼ全ての日本のロックバンドが影響を受けているとも言えます。
その影響力はロックシーンだけでなく、様々なジャンルの多くのアーティストやクリエイターにまで広がっています。
- 度々歌詞にベンジー(浅井健一)が登場するほどの大ファンで、歩く芸術とも称しているほど。ベンジーさんについて、「一体この人はどんな生い立ちで、日々なにを考えているのか、すごく興味があった」とラジオで本人に語っている。
- ブランキーほどの音を鳴らせるバンドはほとんどいないと評している。
- 学生の頃からライブに足を運んでいた。
- BLANKEY JET CITYにちなんで、自身のレーベルJET CITY PEOPLEを設立。リリックにも度々Jet Cityが登場している。
- 高校2年から聴き続け、アルバムの曲順まで覚えているほどのマニア。BLANKEY JET CITYのメンバーの影響でアメリカ車やバイクにハマり、最初に買ったアメリカ車で最初にかけた曲が「D.I.Jのピストル」。
BLANKEY JET CITY・オススメ人気曲
BLANKEY JET CITYの物語性のある文学的な歌詞について、浅井健一さんはほとんど説明しません。
その理由は、「聴いて何も感じない人は感じないし、何か感じる人は感じるから、説明のしようがない。」からと語っています。
浅井健一さんにとって歌詞は感覚的なものなんだね
赤いタンバリン
1998年1月リリースの10thシングル。
オリコンチャートで初登場11位を記録するなど、この曲でBLANKEY JET CITYを知った人も多いヒット曲です。
赤いタンバリンは、浅井健一さんが生まれたばかりの娘を抱き上げた時に感じた、心臓の鼓動の例えだと言われています。
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTには「ブラックタンバリン」という曲がありますね
SWEET DAYS
NHKの音楽番組「ポップジャム」のオープニングテーマに起用されました。
浅井健一さんがこの曲を紹介する際に「ブランキー史上1、2を争う爽やかな曲」と言うほど、ポップでキャッチーです。
オリコンチャート10位を記録しました
3104丁目のDANCE HALLに足を向けろ
最高傑作と称される3rdアルバム「C.B.Jim」収録曲です。
このアルバムの頃から、架空の登場人物の物語を描く歌詞になりました。
小峠英二さん(バイきんぐ)は、「3104丁目のDANCE HALLに足を向けろ」というオリジナルの言葉を使うことに多大な影響を受けて、言葉の強さを意識してネタ作りしているそうです。
ダンデライオン
ドラマ「お熱いのがお好き?」のテーマソングとしてタイアップが決まっていた為に、BLANKEY JET CITYのなかで最もマイルドな一曲になったそうです。
この曲が収録された初のMV集「Babyface President」は、オリコンビデオチャートで1位を獲得しています。
ガソリンの揺れかた
メンバーがソロ活動を始めた後の1997年5月に、ポリドール移籍第一弾シングルとしてリリースされました。
BLANKEY JET CITY中期を代表する一曲で、浅井健一さんのエモーショナルな叫びが印象的なライブのセットリストの定番です。
最後に…
胸に突き刺さる言葉と音を鳴らし続けたロックバンドだったからこそ、BLANKEY JET CITYは解散から20年を経ても未だに再結成が望まれる存在であり続けています。
邦ロック史上最高の3ピースバンドのBLANKEY JET CITYは、今でも褪せることなく輝き続けています。
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