[Alexandros](アレキサンドロス)- メンバーの年齢、名前、意外な経歴とは?

[Alexandros](アレキサンドロス)- メンバーの年齢、名前、意外な経歴とは?


「ドロス」の愛称で親しまれ、今やスタジアム級の会場すら手中に収めたモンスターバンド[Alexandros](アレキサンドロス)。不本意な改名をも乗り越えて見せた[Alexandros]の魅力をご紹介します。

疾走感と力強さを併せ持つバンドサウンドに乗せて歌われる高音域のヴォーカルが印象的な“ワタリドリ”の大ヒットにより、音楽ファンのみならず一般層にまでその名を轟かせたロックバンド、[Alexandros](アレキサンドロス)。

映画の主題歌やCMソング、テレビ番組のテーマソングなどリリース後数年に渡って様々な場面で使用された“ワタリドリ”は、オリコンチャート最高5位という数字以上の意味を持った“大出世作”だと言えます。

生涯無敗を誇った古代マケドニアの王、アレクサンドロス3世の名をバンド名に冠する彼らは、その異名でもある“征服王”の如く、音楽業界の頂点を目指す野心的なバンドです。

インタビューでバンドの目標を尋ねられた際、彼らが挙げたのは日本武道館でもなければ紅白歌合戦でもありません。

50年の歴史を誇るイギリスのロックフェスティバル『グラストンベリー・フェスティバル』ヘッドライナーを務めることを宣言して見せたのです。

出演すること自体が名誉となる名門フェスティバル、そのトリとして出演することを目標に掲げてしまうのですから、[Alexandros]の野望は生半可なものではないでしょう。

しかし、[Alexandros]は“ワタリドリ”のヒットで有名になったラッキーボーイズではありません。

“ワタリドリ”をリリースする以前から日本武道館のステージに立っていた有名バンドでした。

バンド名の変更を余儀なくされるなど、一筋縄ではいかない歴史をたどっている[Alexandros]をご紹介します。

[Alexandros] / アレキサンドロス


バンドメンバー

  • 川上 洋平(かわかみ ようへい) / ヴォーカル、ギター
  • 磯部 寛之(いそべ ひろゆき) / ベース、コーラス
  • 白井 眞輝(しらい まさき) / ギター
  • リアド 偉武(りあど いぶ) / ドラム

[Alexandros](アレキサンドロス)・メンバー

2001年の結成以来、メンバーチェンジを繰り返してきた[Alexandros]は、ファーストアルバム『Where’s My Potato?』リリース後の2010年3月にドラマーの石川博基が脱退。

2010年4月1日に後任ドラマーとして庄村聡泰が加入し、それ以降は不動のメンバーで活動を続けてきました。

しかし、2020年1月に庄村聡泰が“局所性ジストニア”のためにドラムの演奏が困難となり、バンドを勇退することが発表されました。

新型コロナウイルス感染拡大によって勇退日が不確定な状況が続きましたが、2021年3月17日にリリースされた自身初のベストアルバム『Where’s My History?』を最後にバンドを勇退しています。

2021年4月10日には、庄村離脱後にサポートドラマーを務めていたリアド偉武の正式加入を発表。再び4人編成となっています。

川上 洋平(かわかみ ようへい) / ヴォーカル、ギター

  • 氏名:川上 洋平(かわかみ ようへい)
  • 生年月日:1982年6月22日
  • 出身地:神奈川県川崎市

ヴォーカルとギターを兼任する “ようぺいん”こと川上洋平は、青山学院大学在学中の2001年に[Alexandros](当時は別名義)を結成したバンドの創設者で、楽曲の大半において作詞・作曲を手掛けるメインソングライターです。

MEMO

“ようぺいん”はBIGMAMAの金井政人が命名したもので、それまであだ名がなかった川上は「すっげー嬉しかった」と大喜びしていました。

父親の勤務の関係により9歳から15歳までを中東のシリア・アラブ共和国を過ごした川上は、中学3年生の時に日本に帰国しています。

アラビア語が公用語のシリア・アラブ共和国ですが、川上はインターナショナル・スクールに通っており、本人いわく“中東訛りの”英語を話せるようになりました。

MEMO

川上の流暢な英語の発音は[Alexandros]の大きな武器のひとつとなっています。

シリア・アラブ共和国ではCDが流通しておらず、衛星放送などで音楽情報を得ていた川上は、OasisをはじめとするUKロックを最大の音楽的影響として挙げています。

バンドで成功するという夢を叶えるために人生設計をしっかりと組み立てており、大学在学中のデビューという目標が叶わなかった際には、経済的に安定した状態でバンド活動を続けるために就職するという道を選びました。

「夢をあきらめて就職」ではなく、「夢をあきらめないために就職」を選択したわけです。

MEMO

外資系メーカーで営業マンをしていたという川上は、出張先からライヴハウスへ直行し、楽屋で着替えるなりステージに立つなど、かなりハードな日々を送っていたと語っています。

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