松本隆 – 作詞活動50周年のレジェンド|プロフィールや経歴、魅力を徹底解説!

松本隆 – 作詞活動50周年のレジェンド|プロフィールや経歴、魅力を徹底解説!

作詞活動50周年を迎えた作詞家・松本隆さん。
言わずと知れた日本音楽界のレジェンド的存在です。

作詞を担当した楽曲数は、2100曲以上。長いキャリアの中で、ロック・歌謡曲・クラシック・アニメなど、ジャンルに囚われない様々な楽曲の作詞を手掛けてきました。

幅広い年齢層のファンが存在し、近年、その卓越した作詞術が再評価されている松本隆さんのプロフィールや経歴、魅力を徹底解説します。

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松本隆 プロフィール


1949年7月16日生まれ
東京都港区青山 出身
作詞家、プロデューサー、ドラマーなど多岐に渡り活動。

戦後間もない東京で生を受けた松本さん。父は大蔵省(当時)に勤務していたこともあり、堅い家柄でした。

音楽好きだった母方の祖父の影響で、幼い頃から、クラシックやジャズのレコードを聴き、音楽へ関心を持つようになりました。そして、松本さんが中学2年の頃に出会ったのが、当時、世界を席巻していたザ・ビートルズです。

友人が持っていたザ・ビートルズのシングルレコード「抱きしめたい」を初めて聴き、その音楽の虜になりました。のちにザ・ビートルズが来日し、日本武道館で行なったコンサートにも松本さんは足を運んだそうです。

中学3年になると、学校の友達と「バーバリアンズ」というバンドを組みます。担当楽器はドラム。親に買ってもらったドラムセットで練習を重ね、腕を磨いていきました。

高校時代からは、本格的にバンド活動をスタート。「バーンズ」というバンドのドラマーとして、楽器メーカー主催のコンテストで優勝を果たすなど、徐々にミュージシャンとしての才能を発揮し始めていきます。

慶應義塾大学に入学する直前には、共通の友人経由で、のちに盟友となる細野晴臣さんと運命的な出会いを果たします。

優れたベーシストとして周囲に知られていた細野晴臣さんを、松本さんは自身の所属していたバンド「バーンズ」に迎え入れます。東京のディスコなどを中心にライブを重ねていき、バンドとしての活動を続けていく中、松本さんは細野さんから作詞を行ってみるよう勧められます。

その後、松本さんと細野さんは、バンド「エイプリル・フール」のメンバーとして、1969年にプロデビュー。その後、アルバム1枚をリリースし、バンドは解散してしまいます。

はっぴいえんど

松本さんと細野さんは、新しいバンドの結成を試みます。バンドメンバーとして二人が声をかけたのは、細野さんの友人であった大瀧詠一さん。3人で結成されたバンドは、「ヴァレンタイン・ブルー」と名付けられました。

その後、リード・ギターとして鈴木茂さんが加入。バンド名も、「はっぴいえんど」に改名されました。

当時、日本国内のロックバンドの楽曲の歌詞は、英語であることが一般的とされていました。そんな中、はっぴいえんどは、当時彼らが敬愛していたアメリカのロックバンド「バッファロー・スプリングフィールド」に影響を受けたサウンドを、日本語の歌詞に乗せるという点でオリジナリティを確立していきます。

日本語でロックを歌うことを、バンド内で提案したのが松本隆さん。自身が作詞した日本語の詩を、アメリカン・ロックサウンドに乗せて歌うことは、松本さんが中学時代から持っていた詩や読書などの文学的趣味と、ロック・ポップスなどの音楽的趣味を交わらせたコンセプトだったといえます。

1971年に発売されたはっぴいえんど2枚目のアルバム「風街ろまん」は、松本さんの作詞家としての才能を存分に味わうことができ、邦楽ロックのアルバムの中でも屈指の名盤といわれています。

松本さんがこのアルバムで登場させた架空の街「風街」は、自身が生まれ育った青山・麻布・渋谷周辺がモチーフとされています。東京の都市開発が進み、生まれ育った街の姿が急激に変化していく中で、松本さんが想像する古き良き東京の街並みが、アルバム内の楽曲の歌詞の節々に表現されています。

アルバム3曲目の「風をあつめて」は、はっぴいえんどの代表曲といわれる名曲です。2003年公開の映画「ロスト・イン・トランスレーション」や、2021年公開の映画「うみべの女の子」の挿入歌に採用されるなど、発売から50年以上経った現在でも影響力を持ち続けている楽曲です。

「風街ろまん」は完成度の高いアルバムで、はっぴいえんどの面々は、ある種の達成感を感じていました。松本さん自身も、「これ以上の歌詞は書けないと感じた」とのちのインタビューで語られています。その後、3枚目のアルバム「HAPPY END」を発表後、バンドは解散してしまいます。

解散の決断は細野さんと大瀧さんの意向で、松本さん自身は、アルバムを「あと2、3枚は作りたかった」と感じていたそうです。

バンド解散後、専業作詞家へ

はっぴいえんど解散と同様のタイミングで、松本さんはご結婚されていた方との間に、お子さんが生まれました。そのため、当面の生活費が必要となりましたが、当時所属していた事務所からの給料は半年もの間遅配され、なかなか入ってこないような状態でした。

バンド在籍時から専業作詞家になることを目指していた松本さんですが、当面の生活のために成り行きで作詞家としてのキャリアをスタートさせることになります。

1973年に発売されたチューリップの「夏色のおもいで」で、松本さんは作詞家としてデビューを果たします。すると、その歌詞が歌謡界の人気作曲家であった筒美京平さんに高く評価され、松本さんと仕事を行いたいと、声がかかりました。

こうして誕生した松本隆・筒美京平のコンビは、日本歌謡史に残る名曲を次々と発表していきます。

1975年に発売された太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」は、それまで曲先(作詞よりも先に作曲を行うこと)だった制作方法を、松本さんの意向で詞先(作曲よりも先に作詞を行うこと)に変更し、制作されました。

松本さんによって書かれた歌詞は、男女の往復書簡という画期的な内容でしたが、筒美さんはその歌詞に素晴らしい曲を付けて応え、松本さんは驚いたそうです。楽曲は大ヒットし、作詞家としての松本さんが世に広く知れ渡るきっかけとなりました。

1980年代の松本隆

1980年代に入ると、松本さんにとっても重要なシンガーとなる松田聖子さんへの楽曲提供を始めます。

1981年発売のアルバム「シルエット」収録の「白い貝のアプローチ」で、初めて松田聖子さんの楽曲の作詞を手がけると、同年発売のシングル「風立ちぬ」では、作詞が同じく松本さん、作曲を大瀧詠一さんが手掛け、はっぴいえんどコンビでの楽曲提供を果たします。

1982年には、作詞を松本さん・作曲を呉田軽穂(他ミュージシャンへの楽曲提供を行う際の松任谷由実さんのペンネーム)が手掛けた松田聖子さんの「赤いスイートピー」も大ヒット。以降も、松本さんの人脈を生かし、細野晴臣さん・南佳孝さん・財津和夫さんらが作曲を手掛け、クオリティの高い楽曲を次々と発表します。なお、1980年代後半までの松田聖子さんの楽曲のほとんどは、松本隆さんが作詞しています。

また、1980年代の松本さんが行った代表的な仕事の一つとして挙げられるのが、1981年発売の大瀧詠一さんのアルバム「A LONG VACATION」の作詞です。アルバム収録曲の作詞のほとんどを松本さんが手掛け、「君は天然色」「恋するカレン」など今でも歌い継がれる名曲を生み出しました。

歌謡曲・ニューミュージック(1970年代に現れた都会的で新しい傾向の音楽)双方のジャンルで、作詞家として数多くの成功作を生み出すことができたのは、バンド出身である松本隆さんならではの功績だったといえます。

近年の活動歴

1989年、松本さんは一時的に作詞家としての活動を休業。自身で、「1980年代は人の100倍働いた」とのちのインタビュー語られている通り、人気作詞家としての多忙な毎日は、松本さんを心身共に疲弊させました。作詞家活動を休業する傍ら、小説執筆活動などに軸を置いていきます。

1990年代に入り、松本さんが作詞家として再度注目を集めるきっかけとなった楽曲が、KinKi Kidsのデビュー曲「硝子の少年」です。作曲は、山下達郎さんが手掛けました。松本さんと山下さんは、ポップスの王道に戻った曲を作るという意見で一致し、楽曲制作に取り組みました。

発売後、「硝子の少年」は、ミリオンセラーとなる大ヒットを記録し、作詞家としての松本さんは、華々しく歌謡界の第一線へと帰ってきました。

2000年代に入ると、「風街」を題した周年イベントを定期的に開催していて、2015年には作詞活動45周年を記念した「風街レジェンド」、2021年(当初は2020年開催予定でした)には作詞活動50周年を記念した「風街オデッセイ」が開催されました。イベント出演者が、松本さん作詞の楽曲をカバーしたトリビュートアルバムも発売されています。

風街オデッセイ・ライブレポート

筆者は幸運にも、日本武道館で開催された「風街オデッセイ」第二夜に実際に足を運ぶことができ、松本さんの数々の名曲を堪能する機会に恵まれました。

豪華な出演者の中でも特に印象的だったのは、公演のトリを務めた「はっぴいえんど」です。細野晴臣さんがベース、鈴木茂さんがギター、そして松本隆さんがドラムを担当し、「花いちもんめ」「12月の雨の日」「風をあつめて」の3曲を演奏しました。

松本さんは、公演のために、しばらく遠ざかっていたドラムを丹念に練習されたそうで、細野さんから「名ドラマーだよ」と絶賛されていました。その言葉を受け、とても嬉しそうにされていた松本さんの姿が、まるでずっと活動を続けてきた現役のバンドマンのやりとりのようで、とても素敵だなと感じました。

全ての演目が終わった後に、出演者の方々全員がステージに登場し、記念撮影を行っていました。その時の松本さんの表情は、とても晴々としていて、まるで音楽が大好きな青年のようでした。年齢を重ねても、いつまでも瑞々しい歌詞を書くことができる松本さんの姿を垣間見た瞬間だったように思えます。

まとめ

作詞活動50年を超えてもなお、幅広い世代の人々の心に残る名曲を生み出し続けている松本隆さん。近年では、松本さんに関する著書も数多く刊行されるなど、再び注目を集めています。エバーグリーンな輝きを放ち続ける魅力的な作品群は、私たちをいつまでも魅了し続けています。

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